地平線を越えて:ICT革命とユニバーサル社会
バリア・懸念・課題
急速に進化する技術は、新しい可能性をもたらしてくれる。しかし、それらの技術はまた、様々な課題と懸念をも引き起こすのである。もし配慮が足りなければ、技術の進歩は、障害を持つ人に新しいバリアを作り出し、技術が進歩する前はアクセスできていた製品が、使えなくなってしまうこともある。
1) アクセシブルでないインタフェースへと向かう技術のトレンド
技術の進歩は、アクセシビリティの改善に大きな可能性を示すが、同時に以前はアクセシブルだった製品をそうでなくしてしまう可能性も持っている。以下に紹 介するのは、アクセシビリティに問題を引き起こしている新しい技術のトレンドである。
複雑化さを増すデバイスとユーザーインタフェース 製品に新しい機能や能力が追加されるにつれ、インタフェースはますます複雑になっていく。最近の業界調査では、消費者が新しい製品を返品する割合が増えて おり、「欠陥が何処にも見当たらない」返品率も50~90%を越える(商品のカテゴリーによる)。これらのデータは主流製品を買う消費者のものであるが、 認知障害を持つ人々にとって、製品が複雑化することのインパクトはもっと大きい。結果として認知障害を持つ人々や多くの認知症の高齢者が、操作できる家電 製品や機器を見つけることは、だんだん難しくなってきている。
デジタル制御に向かうトレンド タッチスクリーンや、ソフトキ-や、ディスプレイが主であるインタフェースを利用することは、重度の視覚障害を持つ人々の問題の一つとなっている。今まで のつまみやダイヤルのように決まった機能を持つわけでなく、(こうしたインタフェースの)つまみやダイヤルでは、機能が、次々と変っていくかもしれない。 現在、ボタンで制御されている機能が、スクリーンの上に(ボタンとして)表示されるのである。スクリーン上に表示されるメニューにスクロールをするための カーソルを使用することも増えている。製品はますます複雑になっているため、階層メニューを中心にして考えなければならない状況になりつつある。このよう なタイプの製品のインタフェースは、画面を見ながら片手で扱うという操作を要求することもある。これは、ある種の認知障害を持つ人や、動きが思うにまかせ ない人には難しい。さらにこのようなインタフェースは、全盲の人にとっては完全にバリアとなる。これまで各家庭にある家電製品を一人で操作していた全盲者 は、旧型モデルの変更に伴い、突然、レンジや食器洗い機、乾燥機などを使う能力を奪われるのである。触覚で制御できたものは無くなり、今やデジタル表示の 製品しか手に入らないのだ。
小さすぎたり、細かすぎて制御できない機器 デバイスの小型化や統合へと向かう動きは、その扱いや操作をますます難しくしている。たとえば、かつてはとても小さな電話というのはそれほど多くなかった が、今ではほとんどの電話が大変に小さくて、持ち上げることも操作することも、ずっと難しくなった。テレビやオーディオ機器のリモコンでさえ、どんどん小 さくなってきている。そのうちの製品のいくつかは、ボタンが極端に隣接していたり、表面が平らで触覚的に何ら手がかりの無いものであったりするのだ。(稼 動域などのために)小さな製品を好む人々もいる一方で、その製品を操作するための代替方法や、もっと簡単に扱ったり使ったりできる別のバージョンがない場 合には、問題を引き起こすことになる。
閉鎖的な/鍵がかかったシステム コントロールの仕組みにおいて代替手段を何も提供しない閉鎖的なシステムも、また問題を引き起こす。セキュリティおよびデジタル著作権管理に関する不安が 増すにつれて、ハードとしてもソフトとしても、製品は閉鎖的になっていった。つまり、製品を開けることは不可能になり、いかなるハードもソフトも加えるこ とはできなくなったのだ。(電子ブックの一つである)e-Bookリーダーは、テキストにアクセスすることを許さず(スクリーン読み取りソフトウェアはテ キストを読む必要がある)、元々e-Bookリーダーが持っていたテキストを読む機能を停止することに出版社は同意した。ATはテキストを読むことができ ず、e-bookに内蔵されていた読み上げ機能は、出版社によって意図的に止められてしまった。結果として、見えなかったり文字を読むには見えにくいとい う人々にとって、アクセスは(内蔵としてもATを使っても)拒否されている。図書館など共有される場所で使われるコンピュータも、アクセスできないバリア となる閉鎖的なシステムのもう一つの例である。通常PCは、誰に対してもオープンであると思われるが、このような場所のPCは、実は典型的な「鍵がかかっ た」システムであって、ユーザーがソフトウェアや周辺機器を加えることができないようになっている。システムを閉じたものにするときは、内蔵されたアクセ シビリティを備えるか、もしくは代替のインタフェースを通してアクセスのための仕組みを提供するべきである。同様の問題が、大学のコンピュータラボにも存 在する。情報サービス部門が、ウイルスやセキュリティ違反を怖れて、外から来たソフトウェアをインストールしたがらず、ハードウェアも取り付けたがらない というのも、よくある例である。
公共の場所で自動やセルフサービスの装置が増える傾向 チケット販売員、レジ係、案内係、販売員が、より安価な券売機、自動販売機、ATMや情報キオスクに置き換えられるという傾向は、そのような端末装置がよ りインテリジェントになるにつれて続くだろう。これらの情報処理機器が、人間と対になって動く場合もあるだろう。また人間は完全にその場からいなくなっ て、情報処理機器に置き換わるというようなケースもある。明らかな理由があって、ユーザーが変更できないように、これらの機器がデザインされる。自動やセル フサービスの技術は、広い範囲の障害を念頭にデザインされなければならない。さもなければ障害を持つ人々は、券売機、自動販売機、ATMや情報サービスに アクセスできなくなってしまう。全米障害者協議会の2006年のポジションペーパーである「航空会社の自動チェックイン機へのアクセス」は、視覚に障害の ある人々が空港などで経験しているアクセシブルでない自動チェックイン機の課題を指摘している。
対面型のインタラクションから離れる傾向 この傾向には二つの型がある。一つ目は、情報、支援担当の人間を自動装置に置き換えることである。インタラクティブ音声返答システム(IVRs)や、製品 サポートのヘルプデスクに替わるインターネットのヘルプページ、また上述した情報処理機器が対面型のカスタマーサービスに置き換わる例である。そのような システムは、たいてい、障害を持たない人のためにデザインされており、障害を持つ人々が示す違いに配慮していない。例えばインタラクティブ音声返答システ ム(IVRs)は、たいていテキストモードでは操作できない。また、耳の聞こえない人がリレーサービスのオペレーターを介してアクセスしようとすれば、更 なるコミュニケーションの遅れが、しばしばIVRsのタイムアウトを引き起こす。アクセシブルでないウェブページは、このメディアによってしかテクニカル サポートを利用できず、他の人間とコンタクトを取る方法のない人々に、同様の問題を引き起こす。
対面型のインタラクションから離れる動きは、情報サービスの分野においてのみ起こっているのではない。教育、商業、仕事、そして社会的インタラクションま でもが、ウェブや、コンピュータを用いたテレコミュニケーションへと動いている。インターネットを通じて大学が提供する教育プログラムは増え続けている。 企業は人々が家で働くことやリモートオフィスを許容し、要望することもある。同じキャンパスにいるときでさえ、インタラクションや活動の一部は、コン ピュータとインターネットを通してしか利用できないかもしれないのだ。閉店し、ウェブに移っていった店もある。またウェブ上にのみ存在する店やビジネスも あるのだ。
このような活動の全てが今やコンピュータを媒体としているという事実は、潜在的には障害を持つ人々にとっては大きな恵みとなる可能性がある。情報とインタ ラクションがコンピュータを介するということは、情報を、感覚や学習に障害を持つ人々が使えるように翻訳することを容易にする。そのようなシステムはま た、移動に障害のある人々にとっても、より使いやすいものになり得る。しかし、もしこれらのシステムとサービスがアクセシブルでなければ、教育、仕事、日 常生活の活動のような多くの重要な社会の側面が、アクセシブルでなくなってしまうだろう。更に、技術サポートや製品サービス等がインターネットを通してし か利用できないようになれば、それらは、そのウェブサイトにアクセスできない人々にとって、全く使えないものになってしまう。
2) ATと互換性を持たない形式へと進む技術
二つ目の大きな懸念は、ある新しい技術を製品に使うと製品の進歩や変化が速くなるため、現在のATの技術や戦略が(その変化に)追いつけない点であ る。主流技術の急速な変化はATの開発よりも速く、ある特定のグループにとってアクセシブルであった主流技術までも市場からあっという間に姿を消してしま う。更に状況を複雑にしているのは、機能を統合させると、それを実現するための手段が多様化してしまう点である。同じ機能が、異なる製品では異なった技術 や標準を使って実現されるため、ATと主流技術との間の相互運用性が一部にしかない上に、(その運用性は)あまり高くない。従ってATを使えない技術の数 が増えるにつれて、新たに導入される主流技術を使った製品と、それらの製品をアクセシブルにするためのATの供給との間の格差は、この先も大きくなるであ ろう。
機能統合、具現の多様化 技術の統合に関しては、情報処理と数新の機能をひとつの装置に融合することなど、多くのことが語られてきた。しかし、技術自体と、技術を実現するための標 準が、ばらばらになりつつあることは、あまり議論されていない。個々の産業界は統合された技術を創り出しているが、しかしそれぞれは異なった、ときには互 換性のない方法で実現されている。例えば、電話、音楽、メッセージ通信、テレビはかつて、それぞれが個別の技術を持つ四つの独立した産業だった。今は、四 つの産業は全て他のものに変身してきているが、それにはまた、異なる技術を使っているのだ。携帯電話は、最初は声で始まったが、後からテキストメッセージ が追加された。音楽を鳴らし、写真を共有する機能がそれに続いた。そして今や、携帯電話で、ユーザーはテレビ番組をダウンロードして視聴し、放送を受信す るようになった。
インスタントメッセージソフトウェアはテキストメッセージ伝達から始まったが、その後、声が追加された。それは携帯電話やVoIP電話とは異なる技術を 使っている。その後ビデオが加えられるときも、また違う標準が使われた。新しい機能は、付加されつづけている。
音楽プレイヤーは、初めは音楽だけを再生していたが、今は、様々なフォーマットを使い、テレビ番組をダウンロードしたり、再生したりするところまで発展し てきた。通話もすぐに続くだろうが、おそらく現在の携帯電話か、VoIPの標準を使用するだろう。メッセージ伝達は、たぶん、互換性のないテキストプロト コルのうちの一つを使って、通話とともに提供されるだろう。
インターネットプロトコルテレビ(IPTV)は最初、単にインターネットをベースとしたテレビとして始まった。しかし、これもまた、急速に音楽やテレコ ミュニケーションへと広がっている。もし誰かが音声とビデオのブロードキャスティングをインターネット上で行う技術を開発すれば、ポイントツーポイントの 音声とビデオ、またはビデオ電話が開発できないはずはない。これは現にIPTVの産業界の中で―またもや異なる技術と標準を使って―開発が進んでいるもの なのである。
一見しただけでは、一つの装置に様々な機能が統合されていることばかりが目立つが、より注意深く見れば、多様化していることがわかる。例えば、異なる手 法、技術、標準が、通話のために開発されてきている。その結果として、音声、ビデオ、テキスト、音楽、テレビ番組配信のために、かつてないほど多種多様の 技術が使われるようになった。しかし、これらの中には相互運用性のあるものはほとんどなく、それらの持つ唯一の共通点は、声による通話機能がPSTN (public switched telephone network)の中で動くことだけである。それぞれの領域の中にさえ、競合する標準が存在する。これらの、主流に使われる技術は(声と、おそらくビデオ など)は、市場の圧力(例えば、健聴者は互いに通話できることを主張するので、それぞれの音声ネットワークが相互運用できるようになる等)によって、相互 運用できるだろう。しかし、耳の不自由な人々は、市場に対する影響力を同じほどには持たず、他者とコミュニケートする方法についての選択肢もより限られて いる。彼らは同じタイプの技術を持っているか、場合によっては全く同じ装置を持つ相手だけに、コミュニケーションを限定されるかもしれない。一つのメディ アのためだけにデザインしたアクセシビリティ機能(電話におけるテキストコミュニケーションやテレビにおける字幕)は、他の技術の同じ機能とは、異なって いるかもしれず、他の技術に適用することもできないかもしれない。
相互運用性の欠如 主流技術を(設定変更やATで)修正する可能性は、主流技術の、非常に早い変化と、閉鎖的な性質が増えつづけることの両方によって、限定されてしまう。 よって、アクセスのための二つの戦略は、次の二つに頼ることになる。アクセシビリティの内蔵と、相互運用性の内蔵である。もし他のインタフェースの代用を 許す仕組みが提供されれば、それまで「閉鎖的」であったシステムが、アクセシビリティのために「開いた」ものになり得る。例えば、USB接続のついた製品 は、キーボードやマウスと同じように、一般的なUSB接続の「ヒューマンインタフェース装置」(HID)インタフェースを繋ぐのに使えるので、ユーザーが 代替キーボードやマウスを簡単につなぐことができる。さらに、これらのUSBインタフェース装置は、ハードウェアやオペレーティングシステムを越えて動 く。しかし、これよりももっとインタフェースの改良が必要な人のためには、相互運用性の標準は、存在しないか、弱いか、またはサポートされていない。これ まで相互運用性の標準を作ろうとする努力はあったのだが、次第に消えてなくなってしまった。一つの新しい相互運用性の標準は、ユニバーサル・リモート・コ ンソール(URC)の枠組みである。それはANSI標準(ANSI/INCITS 389-2005から 393-2005)の一つとして採用され、現在ではISO標準(ISO 24752)として開発されている。この標準は、電気製品(「閉鎖的な」製品でさえ)を、代替のアクセシブルインタフェースを持つ他の装置を経由して操作 することを許すものである。しかし、企業がプロダクトアイデンティティ(インタフェースは人が毎日見るから愛着が湧くという考え)にこだわると、そのよう な「代替インタフェース」標準を、主流製品に採用することは妨げられるかもしれない。
新技術が発表される際のアクセシビリティの遅れ アクセシビリティのガイドラインがシステムとして機能していないことによって、新しい技術が発表されるたびに問題が起きる。技術に特化したガイドライン は、新しい技術に対応することができないだろう。最近の幾つかの例を以下に挙げる。
CAPTCHA-SPAMがコンピュータシステムに最初に侵入し始めたとき、 CAPTCHAはソフトウェアによる訪問者なのか、それとも本当の人間の訪問者なのかを区別するのを助けるために開発された。不運なことに、初期のもっと も一般的な形式である、文字をビジュアルに認識するタスクによって、サイトへのアクセスを拒まれてしまった人々は、視覚障害者であった。かなり後になって から、代替機能は開発されたのだった。
DVDメニュー-DVDは副音声(訳者注:視覚障害者のために映像に付加する画面内容の
説明)のある動画を含むかもしれない。しかし、メニューへの音によるアクセスもまた、副音声を利用するユーザーのために提供されるべきである。だが現在で
は、ほとんどのDVDでは、ユーザーはメニューから副音声を選択するためには、視力を持たなくてはならない。
CITRIX-これは、シンクライアント・ワークステーションでソフトウェアを使えるよ
うにするためのNTターミナルサービスであった。職場で使われ、コスト削減に貢献したが、スクリーン上の全ての画像とテキストがビットマップ画像であった
ため、スクリーンリーダーを利用している人はアクセスすることができなかった。
携帯電話-携帯電話は、単純な電話機から、メニューを使った多数の機能を持つ機器に急速 に発達した。しかしながら、もしも全盲でメニューにアクセスできない場合には、いつ無料通話をしているのか、また、いつ1分1ドルでローミングサービスを 利用しているのかがわからない。また、充電の状態や電波の強さを確認したりすることもできない。携帯電話には音声出力に必要なハードウェアは全て搭載され ていたが、FCCに苦情が申し立てられるまで音声出力機能は実装されず、オプションとしてでさえ提供されなかった。FCCに苦情が申し立てられた後、当時 既に1年以上市場に出回っていた携帯電話のソフトウェアは変更され、29ドル95セントでサービスプランを購入すれば、同じ電話でメニューの読み上げや、 テキストを音声に変換してメッセージを読み上げる機能を使えるようになった。
補聴器との互換性と携帯電話-1988年の補聴器互換性法が承認された時、携帯電話は例 外とされた。当時、携帯電話がほとんど使われていなかったからである。デジタル電話が導入されたとき、それらは補聴器を使っている人々にとって、深刻な干 渉の問題を引き起こした。1988年の例外規定によって、産業界はデザインの初期段階において、携帯電話機を互換性のあるものにするために何も行動しな かった。消費者がFCCに補聴器の互換性を求める請願書を1995年に提出した後、幾つかの調査研究が行われた。だが、その後5年間に渡って何の進歩もな かったため、怒った消費者は2000年に、FCCに対し修正アクションを起こすよう緊急請願を出した。互換性についての進展は、デジタル電話が紹介されて からずっと後の2003年まで、始まらなかったのである。それはFCCが、無線電話はある一定の割合で補聴器と互換性を持たせなくてはならないという計画 を承認したときであった。この時までに、無線電話の使用者のうち、88%の人々がデジタルサービスを利用していたのである。
繰り返される歴史
我々が前進するにつれて、同じパターンが繰り返されている。新しい技術は、アクセシビリティに配慮されぬまま、紹介され続けている。それらが広く使われる
ようになって初めて、我々はアクセシビリティを要求するのである。けれども、それからようやくアクセシビリティを確保することは、最初のデザインや仕様書
の段階でアクセシビリティを考慮するよりも、より複雑で、より高価(時にははるかに高価)で、多くの場合は効果が下がってしまうのであ
る。
同じパターンがデジタルホーム、バイオメトリクス、電子政府、VoIP、デジタルメディアのデジタル著作権管理(DRM)、ウェブ2.0、次世代ネット
ワーク(NGN)、デジタルテレビ放送(字幕や副音声の他)において繰り返されている。
3) アクセシビリティ規則ではカバーされない形式へと進む技術
もう一つのバリアが生まれるのは、アクセシビリティ法でカバーされていた製品、または製品の機能が、新しい技術へと進化して、法規が適用できないか 効果的でなくなった時である。このようなことがどのように起きるかについて、以下に幾つかの例を挙げる。
技術の変化は管轄法規よりも早く進む 現行の法規と規制の枠組みは、特定の技術について構築されるものである。規則は、建造物、交通、テレコミュニケーション、情報技術などに適用される。今や これらの技術間の境界線が曖昧になってきたことは、明白である。二人の人がそれぞれのキッチンで電話機を使って電話をするとしよう。一人はPSTNを使 い、もう一人はインターネット経由で繋いだとしたら、それは通話と呼べるのだろうか。高速ブロードバンドインターネットサービスは、FCCによって情報 サービスであると規定され、一般には、通信法ではカバーされないのである。
最近、FCCは、相互接続されたVoIPサービス(すなわち、PSTNに接続するもの)は、一連の通信規制を遵守しなければならないとした。それらの中に は、緊急通話やVoIPを提供する施設での通話傍受の許可などが含まれている。しかしながら、FCCはVoIPをテレコミュニケーションサービスではない と決定したため、アクセシビリティの保障など、残りのテレコミュニケーションに関する要求は、これらの新しい技術には適用されていない。電話サービスを、 地元のプロバイダからケーブルプロバイダに替えた人々は、家庭で同じ電話を使っているのに、突然、テレコミュニケーションのアクセシビリティの標準からカ バーされなくなってしまった。将来、IPTVを使って家族や同僚に電話をかけるとき、そして話しながらビデオドキュメントを一緒に見るとき、それはテレビ なのだろうか、通信なのだろうか、それとも情報技術なのだろうか。
遠隔共同作業用の壁が備えつけられている教室を使って、様々な場所で授業を行えるようになり、地方でもよりよい教育の機会が得られるようになったとしよ う。このような環境へのアクセスを可能にしているのは、情報技術なのであろうか、それとも通信なのであろうか。
現在では、ある特定の環境における、ある特定のものだけにアクセシブルであることを要求するという我々の法には、ギャップがある。これらのギャップは、新 しいタイプの製品が開発されるたびに増えるだろう。さらに、単にPSTNにつなぐだけだったときから、今ではインターネット使って電話ができるようにな り、まもなくテレビ受像機でもできるようになるとき、異なる技術の種類へと機能が変化することは、かつてアクセシビリティ法によって守られていた機能が、 もはや守られなくなるということにつながる。機能とそれに対応する技術に基づくモデルと、技術全体を通して統一されたモデルが必要とされるのである。例え ば、電話にだけ適用される法規の代わりに、アクセスに関する法規は通信に使われるどのような技術にも適用されるべきである。
時代遅れになった技術へのアクセス要求と、新技術へのアクセス要求がないこと TTYとキャプショニングが二つの主な例である。TTYの目的とは、耳の聞こえない人々が電話ネットワーク上で、テキストによるコミュニケーションを行う ことである。IPネットワークではTTYはしばしば働かず、他のIPテキストの標準が開発された。しかしながら、VoIPのテキスト変換技術に対する要求 がなければ、耳の聞こえない人々は、世界がPSTNからVoIPへと移行する中で、このコミュニケーション形態から除外されてしまうかもしれない。技術に 特化したTTY(Baudot code)を存続させることは、接続、送信、その他の問題があるため、役に立たないだろう。必要なのは、音声で通話する全ての場合、信頼できるリアルタイ ムのテキスト変換機能を広く一般的に要求することである。このことによって、遺産ともいえるPSTNテキストフォーマットと、他の相互接続されている音 声・テキスト通話技術を、相互運用するように、統合できる。このことで、過去の技術にしがみつくことなく、その機能への要求を提供するかもしれない。同様 に、字幕は、現在テレビ信号の中にコード化されている。しかし、信号のその部分は、IPTVやインターネットからダウンロードされ視聴されるテレビ番組に は存在しないので、それらの規制は有効ではない。一つかごく少数の特別な伝達フォーマットに字幕の要件を制限することは、将来、ギャップを大きくし、いつ かは全くカバーされない、ということになるだろう。
新しい方法で実施される古いパラダイムに資金調達を提供すること 新しい技術が使われると、それまでカバーされていたサービスへの資金がもらえなくなることによって、アクセシビリティの問題が起こることがある。例えば、 遠隔医療の診療報酬は解決が難しい問題である。遠隔医療は運動機能に障害のある人にとっては、特に地方で、大きな可能性を持っている。しかしながら(保険 会社などの)第三者支払人は、遠隔医療サービスには対面での医療サービスと同様の支払いをしないのである。
もう一つの例は、人工パーソナルアシスタントである。人工パーソナルアシスタントは現実的、効率的、経済的にもなりつつあるが、それらは償還されるのだろ うか。もし人々が、時々の遠隔指導と安全な見守りを受けて、より自立し、費用もかからず、生産的に生きられるのであれば、人工アシスタントは民間保険会社 やメディケア、メディケイドでカバーしてもらえるのだろうか。それともアシスタンスや支援サービスは、その人がナーシングホームに入らなければ償還されな いのだろうか。
またもう一つの制約が、主流技術のための資金が、ATの必要に合わせようと使われるときに、起こり得る。もし主流技術が、目的に合うようにATを提供する のではなく、障害を持つ人の必要に合うように再設計され使われるとしたら、それは、目的に合うようにATを提供するのと同じ程度に、同じ方法で、償還して もらうことができるのだろうか。
開かれたvsコンテンツを制約されたインターネット接続 現在、家庭や他の場所にインターネット接続を提供している者が、家庭に送られる情報の種類、提供者、そして接続の質のレベルについて、コントロールすべき なのかどうか、多くの議論がされている。接続を提供する者が、誰が家庭に情報を供給できるかを決めることを許されたとしたら(例えばビデオや電話機)、ま たは、特定の供給者だけに高性能接続を制限することを許されたとしたら、どうなるだろうか。もし、ある家庭で、この性能でアクセスできるのはA社だけと、 インターネットプロバイダによって決められたとしたら、そしてその家のある人が障害を持っていて、B社の製品を必要(B社はアクセシブルな製品を取り扱っ ているので)だとしたら、その人はインターネットプロバイダの方針によって、B社の製品を持つことを妨げられてしまうかもしれない。同様に、その人がC社 によって提供される代替技術を使う必要があるとすると、その人は、低い接続性能を甘んじなければならないかも知れず、アクセシビリティの課題や、アクセス できない状態をも引き起こすかもしれない。この問題は、人々が、自分達の家からだけではなく、複数の場所からで、技術を使わなければならないという事実に よって、ますます悪くなっている。消費者の選択はなくなり、障害を持つ人は、自分の家以外の家からは、電話を掛けることすらできなくなるかもしれない。イ ンターネットは、公共交通システムのように機能しなければならない。そこでは誰もが安全基準に沿ったあらゆる乗り物で道路を行くことができる。特定の道路 上を、特定の場所に行くために、特定の会社の車しか運転できない、というようなことになれば、アクセシブルな技術に頼らざるを得ない人々は、たちまち問題 に陥るだろう。
デジタル著作権管理(DRM) この分野で大変興味深い議論の一つに、デジタル著作権管理がある。出版する人たちの権利を守る必要は重大だが、障害を持つ人々のためのアクセスを認める可 能性も、同様に大切にされねばならない。もしコンテンツをロックし、電子的にコピーできないようにするべきだとしたら、そのコンテンツを異なる形にして表 示するしくみが、セキュアなデジタルプレーヤーに作られなければならない。例えば、もしデジタル本が、視覚的には表示されても、(スクリーンリーダーなど のATがそれを音声で読めるよう)テキストがオペレーティングシステムによって読みとれないのならば、その時は、ブックプレイヤーの中に、それを拡大した り音声で読む仕組みが提供されなければならない。技術的にはこれはそれほど問題ではなく、速度調整のついた音声シンセサイザーは、電子書籍に直接組み込む ことができるし、実際に組み込まれてきている。しかし、出版社がある本の版権(視覚アクセス)を一つの小売業者に売り、その本の音声(読み上げ)権利を別 の小売業者に売ってしまうといった営業方針は、障壁を生み出してしまった。ブックプレイヤー会社は、音声出力オプションが機能することを妨げる設定が、本 の出版社によってプレイヤーに組み込まれた時には、サポートするように要求されてきた。従って、ブックリーダーが、その本を視覚障害者に読み上げる能力が あったとしても、もしその本の出版者が、この本を声に出して読んではいけないという設定にしていたら、その機能は使えない。その本は、他のどんな技術に よっても読み上げができないように、守られているのである。
興味深いことに、OCRと画像技術の進歩は、デジタル著作権管理に変化をもたらすかも知れない。しかし、もしオーディオアクセスが売り手側の選択と結び付 くとしたら、問題は、継続して注意されねばならない。このことは、印刷されたメディアを見ることがますます困難になる、急速に高齢化する人々にとって特に 重要である。
人間の能力を超えるAT 車椅子の利用者は、階段や他の障害物には問題があっても、平坦な場所では歩いている人よりも早いということは良く知られている。例えば、ボストンマラソン では、女性の車椅子チャンピオン(1時間43分42秒)は、男性のチャンピオン(2時間7分14秒)よりも20%速かった。電動車椅子、時には手動車椅子 を使う人々も、歩いている誰かと一緒に動く時には、いつもよりもゆっくり動かなくてはならない。我々は、人が歩くのと同じ速さで動く車椅子の資金援助を考 えるだけではなく、基本的な読み書き能力を超える、コミュニケーションやライティングの補助具の購入に対して資金援助の制限があることについても考えるべ きだ。例えば、音声出力を提供するためだけの機器は償還されたが、それより安い一般のノートPCで音声出力を提供するものに対しては償還されない、という ようなケースがあった。このことは人間の能力の増強や人工視界などにたどり着いた時、どのように対処されるべきなのだろうか。車椅子のように、これらの技 術は、ある点では劣っているが、他の点では勝っているということはよくある。これらはATだろうか、それとも性能を拡大するものとして考えられるべきだろ うか。競技においては、答えはより明らかなのだが、とはいえ我々は、運動に障害のあるゴルファーが競技中にカートを使用できるかどうかというADAのケー スでわかっているとおり、未だに答えにくい問題なのだ。より広い疑問が、学習、仕事等の日常生活の活動に対するATの提供と共に起こってくる。もしそのデ バイスが、障害を持たない人のレベルまで機能を修復するのであれば、おそらく何の問題もないだろう。しかしもし、障害を補償するデバイスを供給する過程 で、超人の能力を与えられたとしたら、どうだろうか。これがカバーされるのは、リハビリテーションプログラムなのか、政府プログラムなのか、保険なのか? もし障害を持つ誰かが、より雇われやすいように他の能力の強化を望んだとしたら、どうなるだろう。もしこれが訓練によって達成されたら、カバーされるのだ ろうか。もし拡張だとしたら、それはカバーされるのだろうか。それはどのように異なるのだろう。なぜ、それは違うのだろう。それはカバーされるべきなのだ ろうか。
4) 障害、AT、ユニバーサルデザインの定義
急速に進化する様々の技術は、障害、AT、ユニバーザルデザインの定義について再考を促すかもしれない。少なくとも法規、規制、公的助成政策におい ての、これらの言葉の使われ方と、解釈のされ方は、変わるかもしれない。
障害の定義 もし盲目の人が人工の網膜や眼球を得たら、その人はもはや盲目ではなくなるのだろうか。それは、その人が得た視界の質によるのだろうか。良く見えているの に、見えているものをどう説明すればいいか分からないようなとき、新しい目で訓練する資格は与えられるのだろうか。その人は便宜を受ける資格があるのだろ うか。他のサービスはどうだろう。車は運転できるだろうか。運転のための新しい目のテストは、必要になるだろうか。もしその目が、1年後に見えなくなった らどうだろう。その人は、また新しい目を受け取る資格を与えられるのだろうか。それともその人は、もう一度「障害がある」と認められるまで、「盲目の」状 態のまま、何ヶ月か何年かの間待たなければならないのだろうか。
その人は将来、人工視界を装着することによって、歩く時には物体の大まかなかたちを見、文字を読む時には画像安定で拡大し、テキストを読む時にはOCRを 用いるかもしれない。その人が仮に現在の視力検査に合格し、どんなテキストも読めたとすると、その人は盲目なのだろうか。その人は、車の運転はできるだろ うか。その人は、目が見えないと認められるだろうか。もしその人が、政府や保険の資金で人工視界を適格だと認められ、現在はもはや「障害者」ではないとさ れているとしたら、人工視界が壊れた時には、改良や交換を行う資格があるのだろうか。
支援技術(AT)の定義 現在、「支援技術」の定義はたくさんある。幾つかの定義は、障害を持つ人々の目的に応じて作られた製品に焦点を当てている。また他の定義は、障害を持つ人 々が、障害を消すのを助ける主流の技術を含む、様々な技術にまで言及している。
定義というものはいつも重要だとは限らないが、資金援助、税の優遇措置、便宜を図るかどうかを決める場合には重要となるかもしれない。この目的にかなっ た、あるアクセシブルな主流製品はATだと考えられるだろうか。主流製品においてそれをアクセシブルにする機能は、ATだと考えられるだろうか、それとも ユニバーサルデザイン(UD)だろうか。もしも障害を消すためにATを買わなければならない人々のためにATの税金の控除があるとすると、アクセシブルな 主流技術はその資格があるだろうか。一部だろうか。全部だろうか。ゼロだろうか。もしそうでないとすると、AT製品も同じことになる-なぜそうではないの か?
ユニバーサルデザイン/アクセシブルな主流の技術
ユニバーサルデザインは大抵、モノや結果ではなく、過程であると定義される。ユバーサルデザインとは、できるだけ広い範囲の人々にとって使いやすく、市場
性のある製品を作り出す過程である。
通信法は、「容易にアクセシブルにできる」場合には、製品をアクセシブルにすることを求めている。その法律は「容易にアクセシブルにできない」場合には、
ATと互換性を持たせることが「容易にできる」場合はATと互換性を持たせなければならないと定めている。直接アクセシブルである場合と、ATを使ってア
クセシブルである場合の境界線はどこにあるのだろう。
今日の携帯電話は、着信音(着メロ)やGPSナビゲーションのような特別な機能をもっており、それは電話上のメニューから選択されて作動することができ る。これらの機能は、既に電話の中に備わっていることもある。またそれらの機能を、選択した時だけ電話の中にダウンロードすることもある。ユーザーはその 機能を、(もし電話とサービスの料金に含まれている場合は)無料で手に入れることもある。時にはユーザーは、その機能のために料金を支払う。その機能は、 電話やサービスのプロバイダから提供されることもあるし、サードパーティから提供されることもある。
それでは、問題の機能が、アクセシビリティ機能だと想定しよう。
- それが電話の中にあるとしたら―それはアクセシブルな製品だろうか(「内蔵の」アクセシビリティだろうか)。
- それがダウンロードされるとしたら―それは内蔵されているのか、それともATなのか。
- もしユーザーが、ダウンロードされたのか、無料なのか、分からないならば―それは意図と目的を持って「内蔵された」とはいえないのではないか。
- もしユーザーが料金を支払わなければならないならば―それは、ATではないのではないか。誰が提供するかは問題ではないのでは(それは、電話をア クセシブルにするために個別に買わなければならない追加機能である)。
- もし他の人々もそれを使って―しかし料金を払わなければならないとしたら、どうだろうか。障害のある人々も、支払うべきなのだろうか。それはAT になるのか。他の製品が、たまたまアクセシブルであったとしたら。それがたとえ、他の人にとっては便利なだけだが、障害のあるユーザーが電話を使えるの は、唯一その方法だけだったとしても、正当だろうか。
もし、これらの問題が注意深く考察されれば、同じ製品の同じ機能が、ATとみなされるか、アクセシブルなデザインとみなされるかは、誰が使うのか、どのよ うに使うのか、誰が支払うのかにかかっている、ということが分かるだろう。
なぜ我々は気にするのか? 定義というものは、法律を定めたり、規制したり、資金を提供するために使われないかぎり、本来学術的なものなのだ。不運なこと に、上記の全ての単語は、これらの全ての用途で使われるのだ(即ち、プログラム適格性、資金援助、税の優遇措置など)。
この問題を解決するための策は、おそらく、デバイスや分類のタイプに焦点を合わせるモデルから離れ、機能とデバイスの役割を基準とするモデルへと動くこと の他には、何もないのである。
解決策の一つは、言葉を、それぞれの概念に対して「一つの定義が全てに合う」アプローチを期待するよりむしろ、文脈(その利用)に特有な方法で定義づける ことによって、得られるのかもしれない。
5) ビジネスケースの果たす中心的役割
最後に、「ビジネスケース」の重要性について、より広い理解がなされなければならない。このレポートは、新しいテクノロジーと、どのようにしたらそ れが障害を持つ人々の役に立つかに焦点をあてている。どのテクノロジーも、製品に組み込まれ、利用可能となり、サポートされなければ、誰の役にも立たない だろう。また、いずれも、企業内の個々人がそれぞれの機能についてビジネスケースを作ることができなければ、それが信頼され、使い続けられることは無いだ ろう。
純利益は、製品が市場に出てそこに留まる第一の理由であり、純利益は、一つの製品のバージョンから他の製品へとアイデアが引き継がれる最大の理由である。 このことは、障害者製品の問題に固有ではない。全ての製品の、全ての局面において真実である。問題は、企業が、利益以外に関心がないことだ―大抵は否定的 な意味で―と、しばしば指摘される。情報通信技術に携わるほとんど全ての企業は株式を公開しており、「利益以外に関心がないオーナー」とは一般の株主であ る、ということに注意することが大切である。株を所有していたり、年金を持っていたりする人たちは、たいてい、自分達の株や年金の管理者達に、報酬(利 益、年金、価値、等)を最大にしてくれるように要求するだけである。環境問題や、労働環境の問題は、時々は株主達の決断に影響を与えるかもしれないが、企 業に対して「アクセシブルな製品を作るように」、「障害を持つ人々にとって良いことをするように」というような利害関係者の指示は皆無である。利益とは、 従って、引力と同じように考えられるべきものなのだ。良くも悪くもない。ただそこに存在するだけだ。それは力である。産業を動かし、我々の経済を動かす非 常に重大な力である。
もし我々の社会のゴールが、障害を持つ人々にとってアクセシブルで使いやすい製品を持つことだとしたら、企業に対し、これらの機能がある方が、ないものよ りも大きな収入を生むことを示すような製品を作る方法を、見つけ出さねばならない。ビジネスケースは明白な市場の要求から、もしくは明白な強制法規から生 まれる。どちらも最終損益に影響を及ぼす。
中には、よりアクセシブルで使いやすい製品が、それ自身のビジネスケースを生み出すのに十分大きな市場を持つケースもあるだろう。技術や技法が産業界にデ モされ、他のデザインを選択したり投資したりするよりも、利益率が高いことを示せるところでは、アクセシブルな機能や製品は、自然な市場原理によって利用 可能になるだろう。しかし、障害を持つ人々の大多数にとっては、長い間、自然な市場原理が主流製品にアクセシブルな機能がもたらしたことはなかったし、将 来もないかもしれない。
規制とは、社会が、ビジネスの方程式に、社会的価値を注入する方法である。(アクセシブルなものを購入するという)規制は、売上でアクセシビリティに報い ることによって、アクセシブルな製品を作り出すことをより利益のあがるものにすることができる。しかし、強制されなければ、どんな規制も効果的ではない。 強制されなければ、アクセシビリティのガイドラインに従う経済的な動機はないのである。事実、アクセシビリティに焦点を当てている企業は、自分達が時間と 労力をアクセシビリティに費やしている間に、競合他社は彼らの財源を他の活動に使っているのではないかと心配するので、意欲をくじかれてしまうのだ。アク セシビリティ規制の強制は、公平な競争を促す効果がある。アクセシビリティに投資する企業は、競合他社もまた、アクセシビリティに焦点をあてねばならない ことを理解している。(リハビリテーション法)508条のような法律や規制は、強制された時、アクセシブルな製品をより多く持つ企業に、競争優位をもたら すのである。(訳者注:リハビリテーション法508条:連邦政府はアクセシブルなIT機器以外を購入してはならず、アクセシブルなWebサイト以外を出し てはならないという法律。2001年に施行され、各州政府にも影響を及ぼした。)
508条は、電子情報技術(E& IT)のアクセシビリティと、E& IT企業がAT企業と協業しようという意欲に対して、多少限定的ではあったが、前向きな効果を与えた。しかし、508条の強制力の欠如、市場の多様な製品 の中から比較的アクセシブルなものを判断する購買部門の非力さ、そして企業による適合性の証明の欠如のために、508条のインパクトは非常に限定的になっ てしまった。現在のVPAT(voluntary product accessibility template 訳者注:製品が508条に適合しているかどうかを判定するツール)は、508条への適合を決定づける信頼できる方法を提供しない。それ は、購買部門が、注意深く考慮された情報によって満たされたVPATと、そうではないVPATとの違いが分からないからなのである。たとえ正確であったと しても、VPATはそれぞれの条項に「関連した」情報を提供するだけで、その製品が、508条のどの条項に適合することを証明するものではない。この問題 は、調達するそれぞれの種類の製品が、508条に適合しているかどうかを決定するための、十分な時間もなく、その訓練も受けていない購買部門に残される。 その結果、主たる強制部門(購買担当者)は、ある製品が(全てまたは部分的に)508条のどの条項に適合しているかどうかについて、確かに知っておくべき 情報を持たない。508条が効果的であるためには、508条の個々の条項の適合性に関し、信頼できる判断を購買担当者にもたらす仕組みが必要である。
厳格な強制を守ることや、重大な影響を持つ規制は、より良い法令遵守につながる。強制されない規制は、ほとんど、いや全く効果がない。ICTの分野では、 強制の度合いや、強制への理解や予測に比例して、企業内の努力や組織が、大きくなったり小さくなったりするのを見ることができる。
アクセシブルなICTを増やすためには、我々はアクセシブルな製品を作ろうとする企業や社員のために、しっかりとしたビジネスケースを考える手段を提供し なければならない。明白な強制は、このための一つの重要な要素である。