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3月13日 (その1) ボストンからサンフランシスコへ

この日の朝刊にとんでもない記事が載っていた。Bostonのプライベートスクールが、情緒障害の生徒を放校処分にしたというのである。成績はまあまあだったにもかかわらず、注意障害のため、時間内に課題をこなせないという理由で。学校は彼の世話をするという名目で、$90000も親からお金を受け取っていたのだが、卒業まであとわずかというときになって、学校は168対2という圧倒的多数で彼の放校を決定した。ADAは、'Independent'な学校にも適用されるべきではないか、という議論に、新聞はかなり否定的な論調で、このような学校は、'補習校'ではなくハーバードやイェール大に自分の子供を送りこみたい親が多くの金をつぎこむ場なのだから、障害者の世話のようなお荷物をしょうことは教師にとって重荷でしかないという言い方をしていた。

私はかなりショックを受けた。米国でも、こんなにADAが浸透していても、やはり本音では障害者はお荷物なのだ。総論賛成、各論反対。統合教育の理念に賛成し寄付を惜しまなくても、自分の子と同じクラスに障害者がいてそれが学校全体の成績に響くようなら、やっぱり出ていってほしいのだ。

人間の本性は、それほど変わるものではない。米国の場合は、それを法律で縛ること、契約によって成り立たせてきた。さて、日本ではどうすれば実現するといえるのだろうか?
孟子の教えに戻るのか? 企業に利益誘導するのか?(それは米国でもものすごくやっている。ADAに小企業を合わせるためのガイドや税金優遇など、なみだぐましいものがある。それでようやくここまで進んできたのだ)ADAもなく、具体的な支援策もなく、人材育成も行われていない今日、果たして私たちは、アクセシブルな社会を構築するにはどうすればいいのだろうか?
アメリカは、強くないと生きにくい国だ。だから、障害者も強くないといけない。それは日本の障害者にはつらいことも多いだろう。しかし、もはや国の財政は破綻し、ヨーロッパ型の手厚い政策を望むべくもない。どうしても、障害者たちを少しずつ世に出し、強くし、後に続く者を育てていくしかないだろう。

ボストンの教育ソフトのお店で赤ちゃんがお勉強していたわたしは、米国におけるADAへのReactionを心配する。行きすぎたアファーマティブアクションが反発を受けたように、もしかしたら反動が起きるかもしれない。
一世を風靡した障害者向け雑誌MainStreamは廃刊になった。それはそれでしかたがない。障害者は障害者向けの雑誌をもう買わない。しかし、Ed Robertsがまだ生きていてメッセージを送りつづけていたら、まだ読者はそれを買ったかもしれない。果たしてRon Mace亡き後、UDは生き残れるだろうか?

Bostonでは、有色人種でちゃんとした英語が話せないと、なかなかまともに扱ってはもらえない。残念だがやっぱりWASPの世界なのだ。英国よりもその点では息がつまる。とてもいいホテルだったし、朝食は素敵においしかったのだが、やはり一回しか行かなかった。見渡すかぎりWASPの皆さんが、PowerBreakfastに集まっている雰囲気だったのだ。お店でも英語がよくわからない。どうもわたしの英語はCAなまりなのだ。もう少しちゃんとコミュニケーションがとれるようになりたい。気後れしないでレストランに行けるようになりたい。ま、ほぼバイリンガルの亭主だって未だに東海岸ではアジア系の店に行くというから、そんなものかもしれない。しかし、気後れするものだなあ。
もっといい服を着て、もっと高級なくつをはいていたら、こんなに気後れしないかなあ。いやいや、これからは、マザーテレサを思い出して毅然と振舞うようにしよう。

飛行機は五大湖を過ぎて、一面の雪の世界から灼熱の砂漠へと移っている。熱い。丸く円形にかたどられているのは、畑だと思う。スプリンクラーの届く範囲が丸いのだ。アメリカのこの広大な大地を見ていると、つくづくでかい国だと思う。よくまあ、こんな広い場所をみんな開墾していったものだなあ。英国のささやかな土地から抜け出して、フロンティアを求めたときの解放感が、わかるような気がする。

わたしも、障害者対応製品の企画・開発というささやかでCozyだが、狭い世界を逃げ出したいと思った。もっと外には新天地が広がっているような気がした。しかし、最初はどこでも同じだが、荒地の開墾が必要だ。自分で土地を見つけ、耕し、収穫を得るまでには、長い根気が必要だ。時間はかかる。しかし、情報処理産業をユニバーサルにデザインする、という大命題をかかげて出帆した以上、新大陸で一旗あげるまでは故郷に帰ることはできない。

クーパーヒューイットで、私はとても寂しかった。私がいる間はあんなにUDに対して懐疑的な態度だったIBMが、こんなにUDを支援しているなんて。私は何のために会社をやめたのだろう。きっと、これからもSNSはUDを推進していく側になるのだろう。私は、これから一人でどうやって生きていけばいいのだろうか?ま、体制に反旗を翻した以上、一匹狼で生きていくしかないさ。あらゆるものに興味を持ち、自分で新しい道を切り開いていくのだ。わたしはいつも、そうやって生きてきた。眼下に広がる広大な大地は、ロッキー山脈だ。見渡すかぎりの針葉樹林、雪に覆われた山々、この山を越えて、西海岸へ向かった人々の歴史を、また思う。途中で倒れたっていいさ。そこまでの道は作ったんだから。後は誰かが、その先を作ってくれるだろう。どんな人生にも、無駄なものなんてありはしない。

それにしても、広いなあ。飛行機だと一っとびだけど、昔はよくまあ、こんな山を、馬車や徒歩で越えたものだわ。