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第二章 冬の章「贈り物として」

5.いのち(その4)

「金山の猟師の哲だけど、轟峠が通れねえって?わしら、金山の奥から抜け道を知っているが、そっちから向かおうか?」
「お、哲さん」
 声を上げたのは幸平だった。
「おう、幸平さんかね、いつも日本酒講座では世話になっとる。あんたの知り合いなら捨ててはおけん。すぐ山に入るぞ。」
「待ってくれ、私も行く」
 雪夫が悲痛な声を出した。
「町のもんは足手まといだ。あれはけものみちじゃけん、マタギの末裔のわしらしか通れんのだ。待っとれや」
「ルイカをもっていってくださいね」
 香成さんが叫んだ。
「おう、香成さん、了解じゃ。電波状況を最高値にしといてくれよ」
 濃いひげを蓄えた山の男は、にやっと不敵に笑って雪の中に数人の仲間と一緒に消えていった。

画像:イメージ写真  林の切れ目から車に戻ろうとして、孝志は苦労していた。上りよりも、くだりのほうが重心を保つのが難しい。何度も足をすべらせては雪の中に埋もれた。も うこのまま雪の中でじっとしていようか、とふと思ったりもした。だが、その思いを振り払って、少しずつ、車の方へと戻っていった。足も手も、感覚がなく なってしまうほど冷たく、痛い。日本でさえこうなんだから、アラスカやシベリアに暮らす人々って、どんな感覚で冬を生きているのだろう?都会暮らしでは決 して感じることのなかった動物のような感覚が、孝志の奥底に芽生えてきていた。寒さや暑さから身を守ること。食べ物や水を得ること。子供を守ること。大地 と交感すること。一度も経験したことがない本能のようなものが、孝志の中によみがえってくる。大地から、立ちのぼってくる何かを感じる。雪も、その下の土 も、生きている。そこにはたくさんの生き物が眠っている。それを感じる僕も、生きている。生きているから、感じることができるのだ。不思議と雪を冷たいと 感じなくなっていた。たくさんの命を抱えているから、山も森も、暖かく感じるのだ。たくさんの美しいものたちを。

生きろ。野太い声がしたような気がした。生きていてもいいんだ。この地上に。この美しいものたちの一部として。おまえにはその権利があ る。生かされている使命も。

 やっと車が見えてきた。あそこには、たっくんがいる。たっくんが、僕を待っている。だから、僕は、いまここで雪の中に留まることはできない。帰るんだ。 あの車まで。這うようにしながら、車まで戻った。雪を払って、後部座席から車内に入る。たっくんが泣いている。申し訳なくてたまらない。「ごめんよ」
チャイルドシートをはずした。たっくんを抱き上げる。ふわりと軽い。帽子や襟巻きについた雪がかからないように、注意しながらたっくんをありった けの毛布や衣類でくるむ。じっと抱きしめていると、泣き疲れたのだろう。眠りに落ちた。オムツも替えていないし、ミルクも飲んでいない。とってもつらいだ ろうと思う。人間にとって大切なことって、そんなにたくさんあるわけじゃないんだ。そう思いながら、たっくんの寝顔に見入る。腕の中で眠る、小さな、この 暖かい生き物。かじかんでいた手に、たっくんのぬくもりが伝わってくる。暖かい。そうだ、ひとって、暖かいんだ。もう何年、ぼくは、そのことを忘れていた んだろう。

 日はとっぷりと暮れていった。孝志はカーラジオをつけっぱなしにしていた。高布町で起きた乳児誘拐事件か、と報道されている。まだ何も弁明していないか ら、そう思われても仕方ないだろう。成り行きとはいえ、岸上さんに申し訳なかった。両親がひたすら謝罪している。ママが来ているんだ。孝志は、圭吾さんが 交信の最後に送ってくれたファイルを思い出した。たっくんの眠りを覚まさないように注意しながら、ルイカを開いてみた。
「あ」
 そこに映っていたのは、孝志が4歳、妹が生まれたばかりのころの写真だった。もうほとんど見ることもなくなっていたデジタル映像から、母が静止 画を切り出してもってきたのかもしれない。孝志はその写真をじっと見つめた。父も母も若い。幼稚園にあがったばかりの僕は、ずいぶんとませた顔で妹を覗き 込んでいる。そして、妹は・・・いま、抱きしめているたっくんと同じように、小さくてか弱い。父の腕の中で、こわれもののように、大事に抱かれている。孝 志の目にうるむものがあった。僕も、妹も、こんなふうに、愛されて育てられたんだ。腕の中のたっくんのぬくもりが、体中を潤していくようだった。足元から しんしんと冷えが伝わってくる。孝志はたっくんを守るように抱きしめた。この小さないのちが、世界の何よりも大切なもののように思えた。

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