第二章 冬の章「贈り物として」
2.コミュニケーション(その4)
雪夫は冷酒の杯を開けた。
「なかなか違う環境になじめないまま、前の小学校で同級生だった女の子とケータイで会話していたんですね。息子にとっては、唯一、気のおけない友
達だったんでしょう。私は、気づいただけでそっとしとけばよかったんです」
圭吾が、雪夫の杯を、地酒で満たした。冬の新酒は、馥郁とした香りに満ち、人のこころを開かせる何かを秘めていた。
「息子が学校の試験で中くらいの成績をとってきたとき、夜行便のフライトから戻ってきたばかりだった私は、つい、小言を言ってしまいました。『こ
んな成績じゃ、いい大学にはいけないぞ。せっかくおまえのために、父さんも母さんもがんばって仕事しているのに、おまえは女の子と遊びまわっているばかり
じゃないか。つきあうのも、今の学校の賢い子にしたらどうなんだ』孝志の顔色が変わりました。
『父さん、もしかして・・・僕の携帯見たの?』
わたしはあせりましたが、うそをつくのもいけないと思い、しゃべってしまいました。
『ああ、そうだよ、子供を心配しない親がどこにいる』
孝志は激しくショックをうけたようでした。親が、自分を信じていない。だから携帯メールを盗み見した。それは、彼にとって、明らかな信頼の欠如、
プライバシーの侵害と映ったのです。息子は、それから次第に学校を休みがちになりました。部屋にこもって三重にかぎをかけて引き篭もるようになりました」
外には雪が降り始めていた。静かな粉雪だった。音もなく、ひそやかに、周りの音を吸収して、あたりは静寂だけが支配していた。翼は、部屋の中で
孝志が傷つくことを懼れて小さなけもののようにうずくまっているのを連想していた。この雪の静寂の下には、多くのちいさな生き物が、冬眠しているのだろ
う。
「孝志は、それから、ずっと私を疑っています。携帯のメールも、家から出すネットのメールも、もしかしたら、全部私が裏からハッキングして盗み読
みしているのではないかと思っています。技術ではなんでもできてしまう。彼にとって、だから、信頼できるものなんて、存在していないんです」
語り終わった雪夫の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。それをぬぐうふりをして、そっと目頭もぬぐったのを、翼は気づいたが何も言わなかっ
た。
「わたしだって、同じようなことしていますよ」
圭吾が切り出した。
「香成さんにお預かりした、孝志くんとつながるためのルイカ、どうしても彼と直接話す勇気がなくて、翼に代わりに会話してもらっているんです。た
ぶん、孝志くんにしたら、これもなりすましの一種なんですから、本当に大人は信用できないと思ってしまうでしょう」
圭吾もかなり落ち込んでいた。ぐいっと冷酒をあおるのを、幸平が目で制した。
「おいおい、圭吾、そんな飲み方では、このすばらしい新酒に失礼だぞ。もっと五感で味わって飲みなさい」
一同は、テーブルの上の冷酒が、愛情をこめて賞味されないのは、酒にも自分にも申し訳ないことだと思い出して、また杯を交わした。
「わしにも、記憶があるぞ。圭吾、お前は高校生のとき、部屋に入って日記を読んだといって、大騒動になったじゃないか」
「わ。父さん、古いことをよく覚えていますね」
「親ってそんなものさ。ま、お前の日記は、どこで何を食ったとか、こっそり酒のんだとか、くだらん内容ばっかりで安心もし、あきれもしたが、あれ
だって、おまえはプライバシーの侵害だと烈火のごとく怒ったじゃないか」
「そうですよ。わたしは当時あこがれていた下級生にふられた話を読まれたのがくやしくて、そこだけ破って燃やしたんです。あれは親子関係を破壊し
た事件でしたよね」
僕は祖父と父の間抜けな会話をあきれながら聞いていたが、ふと気づいた。この軽いノリは、雪夫さんに、歴史は繰り返すといいたいからなのだ。親
は子を心配して、子供のとってもっとも嫌なことをしてしまう。自立心の芽生え始めた少年少女にとって、絶対にやってはいけないことを。大人になってしまえ
ば、こうして笑い話にもできるのに、そのときは、お互い、傷つけあってどうしようもない状態になってしまうんだ。
「もう少し待ちましょう」
香成さんが静かに言った。
「孝志くんは、いい子です。きっとこの町で暮らすうちに、何かを見つけ出せると思います。自分でそれを見つけるまで、信じて待とうと思います」
雪夫さんが、何か言いたそうな顔をし、それを飲み込んだ。雪がしんしんと降っていた。黒い夜空のなかから、湧き出してくるかのような、たくさん
の雪のひとひらひとひらが、はかなげで優しかった。