第二章 冬の章「贈り物として」
2.コミュニケーション(その2)
孝志の中に、父に対するイメージの喪失と、仕事に対する印象の希薄さ、将来に対する漠然とした不安を感じて、圭吾も翼も、心配になっていた。特にこの数
日、書き込みが減り、それも暗い内容になっているのが気になっていた。
「もう、僕がいなくなったって、誰にもわからないんだ。何年か経てば、誰も僕が存在したことそのものを忘れて、楽しく過ごすんだろう。だったら、
僕は早く消えたほうがいいっていう気がする」
「君が消えたら、少なくとも僕は悲しむよ。そして、その悲しみは、一生消えないよ」
「いや、そういっているのも、今だけだよ。君には君の、別の楽しみがあるさ」
どんどんシニカルになっていく孝志の発言に、圭吾自身も、孝志の両肩を掴んで、「おい、しっかりしろ、おれがここにいるじゃないか」と泣きなが
ら怒鳴っていた雪夫を思い出すのだった。目の前にいたら、俺も同じ行動をとったかもしれない。いのちの感覚がどんどん希薄になっていく、かげろうのような
少年の印象を、なんとか濃いものにして残したい。そんな衝動にかられてしまう、圭吾であった。
2月も半ばになって、翼は、ようやく孝志だけを高布町へ連れ出すことに成功した。死ぬかもしれない。そんな予感もあって、圭吾もやはりついていった。孝
志の両親である雪夫夫婦は行かないと言った。一緒にいると何かが起きそうでこわいから、と、親とは思えない理由だったが、翼と圭吾に、何かを託していたの
かもしれない。糸がもつれて、からまって、どうにもほどけなくなってしまって、もう切るしかないという状態にまで、追い込まれているのかもしれないと思わ
れた。
電車の中で、孝志は終始、無言だった。翼だけならともかく、どうして父の先輩の圭吾なんかが一緒にいるんだ。同じ敵に向かうかのように、固くこ
ころを閉ざしてしまう、かたくなな少年は、傷ついたけものがうずくまっているように見えた。
「これ、うまいよ」
翼がサンドイッチを差し出すと、黙って受け取って食べるが、それ以上は会話しない。まず、できるだけ目をあわさないようにしているのだ。人間と
してのコミュニケーションが、どこかで途切れてしまっていると圭吾は感じていた。なにかが、人間形成の大事な瞬間に、途切れてしまっている。人間が、人と
会話をするときの、言語以外のコミュニケーションがない。どうしてこんな状態になってしまったのだろう?デジタルの中で育ったから?五感を研ぎ澄ますこと
を忘れたから?小学校のときは、親の期待に応えてよく勉強し、塾にも毎日通った。でも、それは考える力がついていたわけではない。単に要領よく、手早く回
答できていたにすぎない。父は上海への出張が多く、母は塾の送り迎えなどには熱心だったが、自然に触れさせることや芸術鑑賞に連れて行くことにはあまり興
味をもっていなかった。自身がそのように人工環境の中で育ってきて、何の問題もないと思っていたし、虫が嫌いだったせいもある。孝志は塾とゲーム機と
DVDの映像に囲まれて育った。でもそれは都会の子供にはごく普通の育ち方だった。
圭吾は、信子が幼稚園の送迎を買って出たあの岸上家に孝志を預けることを提案した。孝志は知らない人の中で暮らした経験がない。キャンプのよう
な集団生活にもなじめない子だった。知らない人に自分から話しかけることができない。友達を作るのが苦手だった。
岸上家には、秋の終わりに男の子が生まれ、由梨ちゃんは弟ができてご機嫌だった。拓と名づけられたその坊やを、一家は、町の人は、たっくんと呼
んで可愛がった。岸上さんの家は典型的な兼業農家で、ご主人は二十キロ離れた町の会社で働き、奥さんが田んぼと畑を守っていた。二月の今は農閑期でお母さ
んは子育てに専念していた。
「孝志くん、洗濯もの、二階の縁側から取り込んでね」
「由梨のお迎え、頼んでいい?」
「玄関の雪かき、手伝って」
岸上さんの奥さんは、孝志にいろんなことを頼んだ。慣れない孝志は、それでも何とかやってみようと努力した。家ではお手伝いなんか、まったく
やったことがない。勉強の方が先だったし。でも、こんな小さなことでも、「ありがとう」って言ってくれるのにはびっくりした。孝志のルイカにも、ほんの
ちょっとずつだけど、感謝券が溜まってきているのだった。
感謝券のサーバーを管理している香成は、孝志のルイカが、今ではあまりコミュニケーションのツールとしてではなく、感謝券の受け取りに使われて
いることに気づいていた。だが、孝志からは一度も感謝券は発行されていない。ただ翼とはときどきメールのやり取りを行っているようだ。でも、体を動かすこ
とが増えて、頭だけで動いた気になっていた東京時代とは何かが変わってきているような気がしていた。
「もう少しだ。孝志くん、がんばれよ」積み重なっていくデータを見ながら、それをもつ人間のこころを推し量って、香成は祈るような思いだった。