第二章 冬の章「贈り物として」
2.コミュニケーション(その1)
圭吾が、香成からルイカを預かって戻ってから、もう二ヶ月近くが経過していた。圭吾は、中学生の孝志にどうやって接近しようか悩み、結局、翼の力を借り
た。年の近い翼の方が、孝志のこころに添えるかもしれないと思ったからである。幼馴染の翼にまず孝志に会いにいかせ、ルイカを手渡して会話をはじめても
らった。だが、実際には、圭吾もずっとその会話に参加していたのだ。これも、なりすましだとはわかっていたが、翼と圭吾の二人羽織のような会話は、細々と
続いていた。
孝志は、なかなかこころを開かなかった。長い間、一人で過ごす習慣がつき、誰とも会話しないで生きてきたのだろう。身の周りにはデジタルテレビ
やDVD、インターネットにPDA、あらゆる機器があったが、どれも、彼には実感のないものだった。子どものころは活発で元気にサッカーをしていたのに、
小学校半ばで父が中国に単身赴任したころから、次第にひきこもるようになったらしい。自分でも、どうしていいのかわからない。学校ではそれなりの成績だっ
たけど、なにかがつまらない。何をやる気もしなくなって、学校へいかなくなった。目的がみつからない。何のために生きているんだかわからない。生きている
実感がない…。いろいろなもやもやが、孝志のこころには渦巻いているようだった。
孝志は翼に繰り返す。
「お父さんは、大学へいけなくなるっていうけど、大学って楽しい?大学にいかないとだめな人間なの?」
翼は言葉に詰まってしまい、圭吾に応援を求めた。成りすましの圭吾が答える。
「うーん、大学へいかなくたって、いろんな生き方はあると思うよ。でも、行っておいたほうが、職業の選択の幅は広がるよね」
「だけど、大学に行ったって、会社に入ったって、すぐ辞める人も多いんでしょう?だったら無理していくことないじゃん」
「家族を養うために、お金を稼ぐ必要があるよね」
「家族を持たなきゃいいんでしょう?僕は、結婚なんてしない。家族もいらない。だから養う必要がないから、働かなくてもいいでしょう?」
「でも、自分が生まれてきて、生きてきたっていう証のためにも、仕事の中で自己実現ができるんじゃないかな?」
メールでの会話を続けながら、圭吾自身もかなり苦しくなってきていた。本当に、自分もそう思っているんだろうか?自分が、働いて、お金を稼いで
いるのは何のためなんだろう?家族のため、生きがいのため、そう思って身を粉にして働いてきた。だが、今の仕事、部下に退職勧告をする仕事で、自己実現な
んてできているんだろうか?
翼の言葉を借りて、孝志に先輩面して説教しているふりをしながら、圭吾自身が、自分の生きる意味を問い直す。そんな日が続いていた。翼も、その
二人の会話を見ながら、「孝志のこのセリフ、わかるよな」とか、「おやじって、こんなこと考えていたのか、まだ蒼いじゃん。だけど、ちょっと見直したりし
て・・・」などと、思っているのだった。
香成は、翼に模した圭吾と、孝志の会話を、黙ってきいているはずだった。まったく会話に参加しないので、その姿を感じることはなかったが、このシステム
では彼にもメールは届いているはずなのである。これは、ある意味でプライバシーの侵害とも言える状況ではあった。信書の開封にも等しいからだ。だが、企業
や大学のメールは、基本的に管理者には読まれていることも多いのだ。また翼になりすまして会話を続ける圭吾にも、不思議と、罪の意識はなかった。ネット
ワークの中で、相手のために身分を隠してコンサルティングを行う行為は、場合によっては許されるのかもしれないと思っていたからである。相手の信頼が、自
分ではなく、架空のだれかに寄せられるものであっても、こころを打ち明けることで相手の悲しみが薄れるのなら、バーチャルも悪くない。時と場合によるのだ
が…。
懺悔室にいるのは、自分と牧師だけではない。そこには本当は神がいて、自分の思いを打ち明けることができるから意味があるともいえる。助けても
らいたいときには、自分の発した言葉を、本当に助けられる誰かに届けてほしいと願っているかもしれない。児童虐待や自殺からの救済のためのシステムは、プ
ライバシーとの兼ね合いが難しいものである。