第一章 秋の章「温泉地の秋」
12.新世界へ(その1)
「木の里」の秋は早い。森は最後の明るい衣装をまとい、そして華やかに散っていく。春よりも、秋のほうがずっと色鮮やかなのは、もしかしたら人間
に、そのように生きよと森が伝えているのかもしれない。
圭吾は、香成のオフィスの窓から外を見ていた。小春日和ののどかな空に紅葉した赤や黄色の葉っぱが風に乗って流されていく。もう二週間もしない
うちに、最初の風花が舞うだろう。会社を休むと連絡して、もう一週間になる。父が倒れたことにしているが、そろそろ不審に思い始めているだろう。いや、何
も思っていないかもしれない。思い出したくないことを思い出し、忘れようと頭を振ったとき、木のドアをあけて、香成があらわれた。
「申し訳ありません。打ち合わせに手間取ってしまって・・」
「いえいえ、こちらこそ、お忙しい時間に、お邪魔して申し訳ない」
圭吾は何から切り出そうか、少し逡巡した。香成はそっと立ってコーヒーを淹れる。
「ご両親のお部屋のデータもとれました。翼くんに手伝ってもらって助かりましたよ」
「いやあ、あの子は素直なだけがとりえでして…まあ単細胞なんですな」
「いやいや、なかなかいいセンスしていますよ。これからいろいろと経験を積めば、将来が楽しみですね」
十年ちょっとしか息子と年が違わないような気がするのに、このひとの奥深さはどこからくるのだろう。どうして、こんな若い男に、何もかも話して
楽になりたいなんて考えるのだろう。圭吾に背中を向けてコーヒーを注ぎながら、香成は静かに言った。
「お聞かせいただけませんか?あなたを苦しめていることについて・・・」
圭吾は、中堅鉄鋼メーカーの人事部長だった。バブルがはじけた後、中国へ生産の主力は移り、本社機構は世界の販売拠点をネットワークする組織と
なっていた。たたき上げの鉄鋼マンとして現場で指揮をとってきた圭吾には、商社化してしまった本社は決して面白いものではなかったが、会社への忠誠心と鉄
鋼マンとしての誇り、家族への責任感で真面目に仕事を続けてきたのである。
だが、中国の競合メーカーが強くなるのに伴い、上海に移した工場の採算は悪化し、世界の市場は高コストの日本から離れていくばかりであった。圭
吾にとって、最もやりたくない退職勧告が、毎年五十名以上も必要になっていた。若手はまだなんとかなる。だが、自分と同じように、たたき上げでやってきた
メンバーは、なかなか他の仕事につきたがらない。いや、すでにシニア市場は飽和していた。生涯教育のセミナーは花盛りであったが、新しい資格をとっても、
意識の切り替えのできない人は市場での自分の価値を計りかねて、自信を喪失していた。圭吾は、その中でも、中高年社員のリストラを、誠意をもって対処して
きたつもりだった。しかし、今年の退職勧告リストを見て、さすがの圭吾も顔色を失ったのだ。その中に、自分が新入社員のときから目をかけて育てた荒木雪夫
の名前があったからだ。
「なぜ、彼がリストラの対象なんですか?まだ四十代だし、上海に五年もいたから現地の人脈もあるじゃないですか。社にとって必要な人材です」
圭吾は役員会で必死に荒木をかばった。課長になったばかりのころに高卒で入った荒木を、それこそ家に何度も泊めては家族同様に可愛がってきた。
翼もなついて、お兄ちゃん、お兄ちゃんと、一緒によく遊んだものだった。
「彼は、どうやら、家庭に問題があるらしく、このところ勤務態度がよくない。周囲への影響を考えて、退職してもらうことにした」
今の直属の上司と上長の役員のハラは決まっているらしかった。上司の側もそれとなく退職をほのめかしているらしい。圭吾は荒木を飲みに誘った。
確かに暗い。そしてそわそわと帰ろうとする。
「荒木、どうしたんだ。奥さんとの間に何かあったか」
「いえ、なんでもありません。今日はこれで失礼します」
私鉄の駅に向かう荒木を、圭吾は悪いと知りつつ追った。何か暗い予感がした。都心から約四十五分、閑静な住宅地にある家へ、荒木は入っていっ
た。あかりは奥に少ししかついていない。団欒の時間のはずなのだが。
突然、ガラスの割れる大きな音がした。奥さんが泣きながら飛び出してきた。近所の人が駆け寄る。
「あの・・・」
「早く止めないと。また暴れている!」
乱暴にドアを開けて、中に入った。圭吾もおそるおそる中へ入る。家の中は、ものすごい惨状で、手もつけられない。その中で、息子らしい中学生の
少年を押さえつけている荒木の姿が目に入った。
「おとうさんは、おとうさんは、おまえのために・・」
少年は激しく抵抗する。親はぶつかる。周囲から何人もかかって引き離した。
「荒木さん、落ち着いてください!」
「孝志君も離れて!」
引き離された息子は、息をぜいぜいさせながら自分の部屋へ駆け込み、内側からカギをかけた。ドアを蹴破ろうとする荒木を、近所の人が抱え込む。
そのまま不可思議な沈黙が流れた。ドアに寄りかかったまま、荒木が泣いている。圭吾は、荒木の方に手をかけた。割れたガラスや茶碗、カップラーメンの残骸
などの中で、荒木は、子供のように圭吾のひざで泣き続けていた。