第一章 秋の章「温泉地の秋」
11.家具を作る(その2)
「でも、香成さん、これって、おばあちゃんたちの部屋のデータですよね。今回、短期の滞在で家具はみんなそちらでお借りするのに、なんでこんなに正
確なデータが必要なんですか?」
爽やかな笑い声が聞こえた。画面が切り替わって、香成さんの顔が映った。ほんとに、こいつは、男が惚れたくなるようなやつだ。くそっ。翼も自分
の映像を出すようモードを切り替える。
「短期だからこそ、これまでとできるだけ変わらない環境で生活していただきたいからですよ。ベッドから何歩、歩いたらタンスがあって、そこから何
歩でトイレ、なんていう環境は、身体感覚で覚えているものです。今の御宅が2年たらずとはいえ、できるだけ今と同じ大きさ、高さの家具にして、位置も似た
ものにしておけば、夜中におきたときなどに、思わぬ事故が起きる確率を減らせます。もちろん、ご本人に合っていないものはこちらからご説明して変更させて
いただきます。最初にいらしたときに、ベッドの硬さを処方させていただきましたよね。」
そうだった。遼子さんが真剣に祖母のベッドを取り替えようとしていたっけ。あれ、その後、聞いていなかったな。
「あのベッド、取り替えていただいたんですね」
「はい、あれから腰痛も出ず、毎晩ぐっすりお休みだと思いますよ」
なるほど、こうやって、多くのセンサリングされたデータは、有効に使われていくのか。でも、このデータ、最後はどうなるんだろう?
「香成さん、この部屋のデータって、個人情報だと思うんですが、いつまでとっておくんですか?」
「ご本人の了解次第です。今回のデータ取得も、幸平さん、信子さんの、許可のもとにお取りしています。消したいときは、確実に消去できるよう確認
をお願いしていますが、何年もおつきあいの続く可能性のある家具のお客様の中には、おそらくずっと消さないで持っておいてほしいというご要望もあると思い
ます」
「家族の増減などに合わせた助言をしてほしいと?」
「もちろんそれもありますが、おそらく、家族の定点観測のような役割を担うことができるからだと思います。家具は家とともに、家族の記憶の一部で
す。新婚のときに買った椅子とテーブルに、子供用の椅子が追加され、それが消えます。食器棚や学習机が増えたり、タンスが変わる事もあるでしょう。ずっと
このデータを保持しておくだけでも、たとえ住む家が変わったとしても、途切れない記憶の一つになるかもしれません。」
「でも、それって何かの役に立つんですか?」
目が笑った。本当にこんな顔をするときの香成さんは、百年も先輩なんじゃないかと思う。
「高布町で街の中をルイカで歩きましたよね?町並みに自分の生まれた年代を重ねて、何時間も歩いて回るシニアを見かけませんでしたか?」
「あ、はい、たくさんいました。うちのおじいちゃんたちもはまっていました」
「街の記憶が、街の財産であるように、家や家具の記憶は、家族の財産なのです。目には見えないし、お金に換えることは出来ないけれど、当人たちに
は、何ものにも換えがたいアイデンティティの一部です。だからこそ、わたしたちは、その方々の加齢や経年変化にも耐えられる、百年持つ家具にこだわってい
るのです。百年かけて育った木を切らせていただくのだから、それを百年使い続けるのは、人間の義務だと思っています」
そうだ、工房にも、この言葉がかけてあった。百年ねえ、まだ二十三年しか生きていない僕にはなんだかピンとこないけど、どうして十年ちょっとし
か上じゃないはずの香成さんには当たり前のことなんだろう。
とりあえず、この日のデータ取得は終わった。残念なことに、この場に遼子さんはいなかった。残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちだっ
た。
翌日、大学の研究室で、修士論文の調べ物をしていて、ふと思い立って麻生香成、でネット検索してみた。何も出ない。どこかで聞いたような気がしたのは気
のせいだったのか。KANARU ASOHでも何もでなかった。だが、翼はふと思い出した。CANAL、運河、2つの大洋をつなぐもの。2つの文化、2つ
の価値をつなぐもの。ついでに、と思ってCANAL ASOHで引いてみた。翼は我が目を疑った。その論文の肩書きではオクスフォード大学の講師となって
いたのだ。すっとんきょうな声をあげた翼に、みんなが寄ってきた。先輩が言った。
「知らない君のほうが不勉強だ。彼は大学生のときにIEEEの論文で特選に選ばれた世界的な天才だぞ。」
だが、翼も負けなかった。
「いま、この人がどこにいるか、知っているんですか?」
「知らない。理由があって英国を離れたと聞いたけど、どこで何をしているんだろう?で、君は何か知っているのかい?」
翼はルイカを出そうとしてポケットに手を入れ、そして止めた。なんだか、彼のことをここで話すのは、申し訳ないような、いや、秘密にしておきた
いような気がしたからだ。翼はかぶりを振って、パソコンに戻った。それにしても、このキャリアをあっさり辞めて、あの街に住み着いたのは何故なのだろう。
奥様を忘れたかったからなのか?いや、忘れたくないからこそ、この名前をつけたはずだ。ルイカは手の中でここちよく納まっていた。いつまでも手をつないで
いたいような道具だった。