第一章 秋の章「温泉地の秋」
10.帰京(その2)
母が深いため息をついた。
「お父様の思いはよくわかります。でも、私は、今の六本木のマンションが、嫌いではありません」
翼は母の顔を見た。静かで、真面目だった。
「確かに、虹をみることはできないし、外の状況を身体で感じることが少ないので、外気温を間違って洋服を選んで、困ったことになる場合もありま
す。だけど」
母はもう一回、深呼吸した。
「わたしたち、都市生活者は、この街の利便性を捨てられないのです。三分おきに地下鉄が来て、二十四時間スーパーが開いているこの環境があったか
らこそ、私は翼を育てながら、仕事を続けることが出来ました。病気の子どもを置いて出かけなければならないときも、部屋の温度調整を、子供の体温変化に合
わせてくれる仕組みがあったので、なんとかやってこれたのです」
翼は母が必死で働いていたころを思い出した。僕をいい学校へ入れるため、中学校も二回かわったのだった。塾の費用も私学の入学金も、東京はすご
く高い。翼の学校のために、母は仕事を続ける必要があり、そのためにも都心で暮らす必要があったのだ。
「めぐみさんは、翼のためにも、仕事を続けるとがんばっていたものな」
祖父がつぶやいた。少子高齢社会といっても、大学の難易度はそれほど変化するものではなかったのだ。
「翼を、もっと自然環境のいいところで育てたいと、思ったことも一度や二度ではありません。でも、今の日本では、教育環境のほうが大事だったりす
るんです。これまでは、それを最優先でやってきました」
祖父は黙って聞いていた。
「それに私、今の六本木の暮らしも、すごく素敵だと思うことも多いんです。私は、仕事でニューヨークにもカトマンズにも短期間暮らしたことがあり
ます。今の東京は、古い部分も残しながら、世界最先端の部分もあって、かっこいいじゃないですか?清潔で、モダンで、ポップアートなどの情報発信基地でも
ある。こんな場所に住めるのも、悪くないと思っています」
「そうだねえ、僕もそういう意味では都会生活って満喫していると思う」
「高布町のような懐かしい街や温泉施設も、嫌いではありません。でも、私は、二期倶楽部や四季彩 一力のような、モダンでクールな温泉宿も、新し
い温泉文化として、日本からの情報発信の一つだと思っているんです」
母の意見も、その通りだと思った。都会には都会にしかない良さもある。翼には、まだどちらがいいとも悪いとも決められなかった。人生経験が少な
すぎるということかもしれない。祖父は言った。
「めぐみさんの気持ちもわかる。だが、五十を超えると、疲れるのだよ。仕事をしすぎたと思ったら、しばらく休むがいい。たぶん、圭吾も、何か感じ
るところがあって、信子さんと一緒に残ったのだと思うよ」
母は深くうなずいた。
「ええ、そうです。あの人は、今、深く悩んでいますから」
やっぱり、両親の間では、わかっていたのか。特に話し合っているふうでもなかったのに。まだまだ僕は、「人の間」がわかっていないみたいだ…
列車は東京駅へ滑り込んだ。ネオンのきらめく高層ビル街が、見慣れた景色のはずなのに、別のものになってしまったような気がしていた。