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第一章 秋の章「温泉地の秋」

10.帰京(その1)

 帰りの列車の中で、祖父のルイカは、高布町が遠ざかるに連れて、街のイントラネットなど、使える機能が少なくなっていった。わかっていたことでは あるが、祖父は寂しそうだった。幸平さんの日本酒講座を楽しみにしていた仲間内にも、しばらくお休みを告げると、「早く帰ってこいよ」「待っているぞ」と いったメールが殺到したそうだ。翼は自分が預かったルイカには手を触れなかった。東京に行ってから、香成さんのメールを見てからにしよう。何故かその決心 をしていたのだ。
 祖父は、母と翼に話をし始めた。虹の話だった。
「六本木のあのマンションに移って、一年も経ったころだったか、わしは、外で虹を見かけた。雨が止んだので散歩しようと外にでたときじゃった。ビ ルの谷間から、数メートルだけ虹がみえたんだよ。わしは大急ぎでマンションに戻った。きっとわしの部屋のあの大きな窓から、きれいに見えるに違いない。わ しは、もどかしい思いでエレベーターのボタンを押した。中には小学生の男の子がいた。わしはつい、声をかけたんだ。
『坊や、お部屋に戻ったら、東の空をみてごらん、きっと、きれいに虹が見えるよ』
その小学生は、ふうんという顔をした。
『虹を見たら、幸せになれるって言い伝えがあるんだよ』
その子はやはり何も言わなかった。わしのほうが先にエレベーターを降りた。扉が閉まりかけたとき、『ばっかみたい』とその子がつぶやくのが聞こえ た。わしは少し悲しかった。でも、やっぱり急いで、家へ戻ってカーテンを開けた」
 ここで祖父は、深くため息をついた。翼は次の言葉がこわくて黙っていた。
「翼にはわかるだろう。そうさ、あの窓からは、虹なんて見えないんだ。空の色はあくまでも青く、雲は白く見えるように、色調整が行われている。夕 陽も朝陽も、きれいに見える。でも、虹には対応していない。さっきまで見ていたはずのあの七色の光は、きれいに調整されて、青の中に溶けてしまっていた。 わしは、しばらくそこに立ち尽くしていた。わしは、ここで何をしているのだろう。『ばっかみたい。』そういった小学生の言葉が甦る。そうだ、ばかばかしい ことかもしれん。虹が見えても見えなくても、いったい何の違いがあるのか。わしはそう思おうとした。このまちで、このマンションで生きるというのは、きっ とそういうことなのだ」
 祖父は言葉を切った。たくさんのものを失ってきたひとの、痛みが翼にさえ伝わってきた。
「だが、わしは思う。翼、今朝の虹をみただろう?わしらは、本当に、虹を見なくても生きてゆけるのだろうか?天や地や、人とつながらなくても、生 きていっていいのだろうか?」
 住み慣れた土地を離れ、多くの友人と離れ、そして、この瞬間に、祖父は、天とも切り離されてしまったと感じたのだろう。
「初日の出に手を合わせる。たしかにそれは何の役にもたたんかもしれん。流れ星に願い事を祈る。虹を見て幸福を願う。それも迷信かもしれん。だが それは日本だけではなく、世界中で、人が自然に対して持っていた素朴な畏れだったはずだ。東京にはそれがない。だから、わしらは、もうあの街では生きられ んのだよ」
「高布町では、そんな印象を受けなかったのですね」
 母が静かに応えた。
「ああ、そうだね。わしは、ルイカを使いながら、あの土地の歴史や風土、産物を知り、この地とつながっている自分を感じていた。人々の思いや、感 謝券を通じて、ここの人々とつながっていることも感じていた。森を感じ、風を感じ、そして今朝の虹で、天ともつながっていることを実感できたのだ」
「天とつながり、地とつながり、人とつながる・・・・」
 翼はうめくようにつぶやいた。
 香成さんが翼の後ろにいて、彼が発した声のような気がしていた。そうだ、ルイカは、そのために開発されたものなのだ。やおよろずの神々が、世界 に満ちていたころの、素朴な思いが翼の胸に戻ってきていた。木々や岩など万物に宿る魂を崇め、地の恵みに感謝し、ひとのあいだと書いて人間と呼んでいた、 長い歴史だった。

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