第一章 秋の章「温泉地の秋」
9.虹
翌日、翼たちは家庭会議を開いた。とはいえ、昨日の街歩きで、祖父母がこの街を深く愛していることはわかったので、もう両親もひきとめなかった。
仕事がなければ、一家で移住したっていいのにね、と、母が言っていたのはあながちウソではないかもしれない。全部を引き払って移住、というのではなく、こ
の街の短期滞在システムを半年間試してみることになった。家具付きの一戸建てを半年単位で借りて、もし気にいったら半年ごとに契約を更新するというもので
ある。
とりあえず祖父は東京の荷物をまとめるために帰京することになり、翼と母は一緒に戻ることになった。祖母は、新居を探したり家具を揃えたりと
いった準備のためにこちらへ残ることになった。父は、祖母を一人にするのは忍びないので、もうしばらくこちらに滞在するといって聞かなかった。あんなに会
社を休むのをいやがっていたのに、いったいどういう心境の変化なのだろう。父は遼子さんに電話をし、家族の決定を伝えた。翼は電話に出る勇気がなかった。
午後の列車で戻ることが決まり、翼たちは荷物をまとめてログハウスを出た。
「あ、虹だ」
さっき降ったにわか雨の後で、玄関から広がる高原の風景の中に、大きな虹が出ていた。翼にとっては、何年ぶりかの本当の虹だ。だって、東京の虹
は、こんなに大きくない。ビルの谷間で、ごくわずかな範囲でしか見えないのだ。こんなふうに、大地の端から端まで、きれいな円弧を描いているのなんて、な
んだか合成映像を見ているようだ。まずい。バーチャル体験のほうが実体験を超えているのは、現代人の感覚麻痺の原因だって、昨日、香成さんが言っていたよ
うな気がする。
祖父が虹をじっと見ていた。そしてルイカを取り出し、写真を撮った。『私の好きなもの』のコーナーにしまい、しばらく眺めたあとで、感謝券を十
枚も虹に対して発行した。その間、何も言わなかった。その姿を見ながら、ふと、思った。人間は一生に何回くらい、虹を見るのだろうか。祖父は、祖母は、あ
と何回くらい、このように美しい虹を見ることが出来るのか?そして僕は?
その虹のたもとから、一台、車が高原の道をたどってくるのが見えた。見覚えがあった。
「遼子さんだ!」
彼女は一台のルイカを持っていた。昨日のことには何も触れず、真っ直ぐ翼へルイカを手渡して言った。
「香成さんから預かってきました。家具の配置を把握するための新しい機能がついた機種なんだそうです。使い方はメールで翼さんにお伝えするとのこ
とです」
「えっ、だってルイカはこの街でしか使えないものなのでしょう?」
「少しシステムを作り直したようです。でもまだこのマシンは試作機で、テストも不十分なので、他の方には貸さないようにとの伝言でした」
翼くんへ、というメモがあった。
「昨日はありがとう。僕の研究開発を、手伝ってください」
短い言葉だったが、嬉しくて有難くてならなかった。