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第一章 秋の章「温泉地の秋」

8.木の里で(その2)

「ええ、ルイカの一番大きな特徴はその点です。最初から、コミュニティの中の問題を解決するためにできているので、このルイカというシステムそのも のも、ゴミ出しの仕方や路線バスのルート問題などと同様に議題になったのです。まちのひとが機能や使い勝手について議論する場をオンラインでもオフライン でも設け、その中で出た意見を取り入れて改良を重ねました。」
「なるほど、自分たちで育てたという思いがあるから、ルイカは街の人に愛されて、よく使われているのですね」
 母も反応している。
「はい、そうです。こういった街の道具は、街のひとたちのものです。その街の風土や気候、人々の気質、伝えられてきた文化など、そこにしかないシ ステムがあっていいはずなのです。その街のひとの思い、その場所への愛着を、システムの中で共有するのが、コミュニティにおけるシステムの基本だと思いま す」
「でも、ルイカは今、あちこちの自治体へ導入されているんですよね」
 遼子さんが追加した。
「そうなんです。基本となるシステムと、ファシリテーターを務める地域のキーパーソンへの教育をセットで各自治体に販売しています。市の財政に も、知名度向上にも、相当貢献していると思いますよ」
 また、いたずらっぽく笑った。なんだか、大きな子供のようだ。
「でもこのルイカ、自分の個人情報もたくさん入っているし、市民の個人情報もかなり見えてしまうのに、犯罪に使われたりしないんですか?落とした り盗まれたりしたら心配だわ」
 母が自分のものであるかのようにルイカを覗き込んで尋ねた。
「実はルイカには個人認証の仕組みが三つも隠されているんです。指紋と声紋、それに虹彩です。これが最低二つ揃わないと、ルイカは動かない仕組み になっています。拾ったルイカは、交番に届ける以外使い道はないタダの箱です。でも管理センターでは照合システムがあるので、本人へ連絡できるんです。も し落としても、ルイカで見えているデータは、基本的にネット上に蓄積されているものなので、別のルイカを処方すればまた使えるようになります。」
「ATMなどで暗証番号などのデータをルイカに伝えますけど、あれは問題ないのですか?」
 今度は祖父が聞いた。考えてみれば不思議な仕組みだ。
「ええ、あの場合は、単なるリモコンとして、ATMや券売機のデータを、バーチャルで扱っているにすぎません。実際のデータはATMにしか残らな いのです。ま、例えて言えば、昔の固定電話で会話しているところを思い浮かべてください。受話器そのものには、何にもデータは残りませんよね?この場合の ルイカは、この受話器のようなものなのです。本人確認はルイカの認証機能だけでも大丈夫なのですが、以前からの暗証番号の入力も、シニアのために残してあ ります。好きな入力方法が選べたほうが楽ですから」

 香成さんは、ここで、ルイカの改良や市民の要望による新規のアプリケーション開発のほか、遼子さんのような温泉セラピストの要望に答え、温泉滞在 者の身体状況にあった家具を製作する職人さんに、データを渡すシステムを開発しているらしい。遼子さんが香成さんと仕事の打ち合わせをしている間、翼たち は香成さんに感謝券を十枚発行した。五人で二時間も話し込んでしまったのだもの。
いつまでも話は尽きそうになかったが、翼は香成さんに申し訳なくなって、みんなを促した。立ち上がりかけて、ふと聞いてみた。
「香成さん、このルイカっていうの、アイヌ語で橋という意味だそうですが、なんだか人の名前みたいできれいですね」
 香成さんの目が一瞬遠くなり、今度は少し悲しそうに、そして限りない優しさで微笑んだ。遼子さんがふっと目をそらした。
「私の妻の名前です。結婚して一年で亡くなりました」
 その声は、愛情に溢れていた。

 帰りの車の中で、遼子さんはあまり多くを語らなかった。香成さんの奥様が外国の方だったこと、急な病気でなくなられたことくらいしか知 らないと言った。彼女が呼び覚ましたくなかったのが、香成さんの悲しみか、それとも奥さんへの愛情かはわからなかった。両方だったのかもしれない。翼は、 触れてはならないものに触れてしまったことの重さに、ずっと耐えねばならなかった。あの一瞬、香成さんの目の中に、いや、魂の中に、これまでの幸福や不幸 が、一気にフラッシュバックしたような気がした。あのひとの作りだすシステムが、あんなに美しくて優しいのは、あのひとが、きっとたくさんの痛みや悲しみ を知っているからなのかもしれない。たくさんの喜びや幸福を知っているからかもしれない。ずっとデジタルの世界で生きてきた翼は、人が使うものはひとが作 るものだという単純なことさえ、忘れていたような気がする。
 翼は香成さんの言葉を思い出していた。
「どんなシステムも、それを使うのは人間だということを忘れないで下さい。そして、どんなシステムも、あなたの感覚を超えるものではないのです。 ルイカで犯罪が起きたらと心配する前に、あなたがその人に会って、目を見て、信頼できるかどうか判断してください。人間は、何万年も、そうやって生きてき ました。あなたの五感をもっと鍛えて、そして信用してください。この水は飲めるか、この食べ物は食べても害がないか、それはあなた自身が本来、判断するは ずだったことです。RFIDタグで賞味期限がきたものを全部捨てるようなことをしていたら、本当に人間はだめになってしまうかもしれません。わたしは、 ITを駆使しながらも、子どもたちに、森で生き抜く力を身に付けてもらうためのワークショップを開催しています」

 秋の陽はつるべ落としで、五時をすぎたらもう真っ暗であった。翼は一人で露天風呂へ出かけた。湯船の底には、湯の花が厚く溜まり、蹴飛 ばすと湯の中で白い霧のように流れた。今朝の遼子さんの、輝くような笑顔や、蕎麦屋での気配り、そして夕方の車の中を思い出していた。彼女はたぶん、そ う、おそらくだけど、香成さんに好意をもっている。香成さんの大きさが、翼を圧倒していた。翼は、ざぶんと湯船にもぐった。勝てるわけないじゃん。酸性の 湯が目に痛い。でも、温泉の肌触りは心地よかった。どうやら、僕も少しだけ、温泉が好きになってきたらしい。

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