第一章 秋の章「温泉地の秋」
6.街を歩く(その4)
翼は、由梨ちゃんを思った。二人目もまもなく生まれる。都会ではもう結婚しても子供を持たないカップルや二人目はとても無理という人も多いが、このまち
では、確かによく子供を見かける。観光客も、住民もだ。ベビーカーで動きやすい商店街、シニアや妊産婦に配慮してあちこちに素敵な椅子のある街路など、ユ
ニバーサルデザインが街の細部に浸透しているせいだと思っていたが、システムもそうなっているのだろう。『この街で育つ、たくさんの未来へ』何かの広告で
見たキャッチコピーがこころをよぎる。おそらく岸上さんも、こんなサポートシステムがあるからこそ、二人目を生もうという気になったのだろう。町のユニ
バーサルデザインとともに、市民の意識も変わっていけば、古い日本の町並みや家屋でも、住み続けることはできるのかもしれない。
「だけど、ぼく、よくわからない点もあるよ」
「なんだい?」
「臨月間近、とか、高齢者一人暮らし、なんて情報、公開なんかしたら、危なくないの?若い女性一人暮らし、なーんて情報があったら、僕、ちょっと
そそられるよ」
「おいおい、翼、新聞ネタになるようなマネはするなよ。でも確かに、今の由梨ちゃんだって、知らない人に預けるようなもんだから、都会人からした
らぎょっとするかもしれんな。これにはからくりがある。ボランティアのレベルに対して、まちの住民が推薦するかどうかのボタンを押せるんだ。あの、共感ボ
タンは、イントラではそういう機能として使えるんだ。どうやら、信子さんは、遼子さんを始め、和菓子仲間の共感ボタンがたくさん集まっていて、良い人だ、
信用できそうだ、という評判があるらしい。だから、岸上さんは信子さんのデータもよく知っていたし、安心して由梨ちゃんを預けたんだ」
「でも、これって、短期滞在の観光客も使えるサイトなんでしょ?狼の皮をかぶった羊…じゃなかった、羊の皮をかぶった狼だって、世の中にはいるんじゃない
の?最初はせっせとボランティアして、街の人を安心させて、どこかでごっそり売上金を奪って逃げるとか…」
「まあな、皆無とはいいきれんだろう。どんなに温厚で善良な人間でも、魔がさすということもある。わしも、居酒屋の留守番を頼まれたときは、大皿
のレンコンの煮付けがうまそうだったんで、つい、出来心で一つ失敬し…」「ま、幸平さん、なんてことを!」
いつのまにか後ろに来ていた祖母が怖い顔でにらんでいた。
「感謝券をお返ししなさい!」
おやおや、おばあちゃんは、すっかり元気になっている。翼は気がついた。こんなに祖父と話をしたのは、もしかして生まれて初めてかもしれない。
両親も祖父母の話を聞きながら、ときどきうなずいている。今度は、両親の間で、言葉のない会話が成立し始めているかのようだ。翼たちは駅のそばへさしか
かった。特急列車が到着して、観光客がどんどん降りて来る。