第一章 秋の章「温泉地の秋」
5.光の中で
遠くで鳥の声がする。チーチーと鳴く声が、だんだん近くになり、数が増え、次第に耳元で鳴いているような気がしてきた。騒がしい!翼はベッドの上に飛び
起きた。何なんだ、いったい、これは。この前、一晩泊まったときには、こんなことはなかったぞ。両親はうるさそうに布団をかぶっていたが、遂に起きてき
た。祖父母は、すでに起きて、ベランダから外を見ている。夜明けの光が東の空を染めはじめて、バラ色の雲が薄紫の空に浮かんでいる。朝の冷気が肌をさす
が、それも気持ちがいい。大音響と思ったのは、やはり鳥の群れだった。どうやらこのログハウスのそばの木をねぐらにしているらしく、何百羽もいっせいに目
覚めて朝の挨拶をし、そして飛び立つ準備をしていたのだ。ベランダを開ければ、それが聞こえたのである。朝の騒がしい協奏曲は、十分くらいで終わりを告
げ、みんな里へ飛び立っていってしまった。周囲は柔らかい朝陽に包まれた。
「起こしてしまったかい?でも、こんな鳥の声で目覚めるなんて、ひさしぶりだろう?」
祖父が話し掛けてくる。
「そうだね。いや、初めてかもしれない」
翼は本当にそう思いながら洗面所へ向かった。鳥の声、陽の光、朝の冷気、そんなものを感じながら目覚めることなんてなかった。六本木の完全に制
御された空気の中で、翼は、目覚ましロボットに毎朝起こしてもらっていたのだ。
「幸平さん、コーヒー淹れましょうね」
「いや、信子さん、僕がやりますよ」
キッチンでの会話を聞いて、翼ははっとした。二人とも名前で呼んでいる。祖父母がこんな名前だったことを、翼はこれで思い出したくらいだ。うち
でもずっとおじいちゃん、おばあちゃんだったし。父さんと母さんも、どんな風に呼んでいたっけ?名前で呼ぶのって聞いたことがないような気がする。
ベランダで朝食をとる。木漏れ日がきらきらとテーブルに影と光を残し、風がときおり遠くで鳴る。森の中を抜ける音だろうか。子供の頃には聴いたことがあ
るような記憶があるが…コーヒーも、地元のものらしいパンも、切っただけの野菜やりんごも、ミルクも、なんだか、すごく美味しい。こんな朝に食べるからな
のか、いや、それぞれが、実際に東京で食べるものよりも、はるかに美味しいのだ。
「なんか、この野菜やパン、美味しいよね」
「うん、雰囲気だけじゃなくて、味が違うと思う」
母も、かみしめるように高原野菜を食べている。きゅうりやかぶを切って塩やマヨネーズをつけるだけなのに。パンも固めだが香りが素晴らしい。な
んだか、幸せな気分だ。そして、祖父母が、なぜかとても若く見える。たった六日間で、こんなに印象が変わることってあるんだろうか?
「あっ、また鳥がきたわ」
祖母が声をかけると、祖父がさっとポケットに手を入れた。出したのはルイカだった。すばやくカメラで撮る。映像から画像認識をして、その鳥の
データを探し出す。
「そうか、あれはキビタキというのか、胸が黄色いんだな。おや、ひなの間はあんまりかわいくないな…」
画像が不鮮明なときは、声からも検索できるという。
「森を歩いていて、バードウォッチングをするのが楽しみになってなあ」
「わたしは花ですね。図鑑を持ち歩けるようなものだし、日記代わりにメモとして残せるので楽しくって」
どうやら、すっかりルイカにはまってしまったらしい。
「データがあるものは、そのままネットに接続できるのよね」
そういいながら、祖母はルイカを台所の野菜かごにむけた。かぶの葉っぱを束ねているリボンに、RFIDタグがついているのだろう。ルイカの画面
に、その野菜が畑にいたときの写真が映った。みずみずしくて美味しそうだ。作っている人の顔、メッセージ、季節ごとの畑の風景も見える。
「農薬何回かけて、といったトレーサビリティも大事だが、どんな人が作っているのかのほうが、信頼のためには必要な情報だったりするんだよね」
たしかに、実直そうなお百姓さんの顔だ。『孫に食べさせるつもりで作ってます』と手書きで添えてあるのもいい。コメントを読んだ翼の顔を見て、
祖父がルイカをしいたけのタグに向けた。『わたしが採集しました』麦わら帽子のおじさんが映っている。
「あら、これ、おじいちゃんじゃないの!」
母が驚く。
「ははあ、ちょっと手伝ってみたんだ。面白かったよ」
「私も袋詰を手伝ったの。楽しかったわ。バイト代はしいたけ二袋と地域通貨なんだけど」
「それも、このまちの地域通貨、ちょっと他と違うんだよね」
「何が?」
「ま、街の中へ出てみればわかるさ、後で街へ行ってみよう」