Home » 実績 » ユーディット関連書籍 » スローなユビキタスライフ日本語版 » 第一章 秋の章 「温泉地の秋」 » 4.夜を抜けて

第一章 秋の章「温泉地の秋」

4.夜を抜けて

画像:イメージ写真  父は不機嫌だった。母はしゃべり続けていた。そして二人とも不安そうだった。週末の予定をキャンセルし、三日のうちに祖父母を連れ戻さなければならない と焦っていた。
「何度でも湯治にいってくれてかまわないんだから、大人しく帰ってきてくれればいいのに。とにかくこんな騒ぎはおこさないでほしいわよね。帰りた くないなんて、子供じゃあるまいし」
「だから、帰りたくないっていうんじゃなくて、あっちで暮らしたいっていうだけらしいよ」
「それが困るのよ。世間体だってあるし。そっちで暮らすにしたって、荷物もあるんだから、一回は東京に戻るべきでしょう。誰が引越しの準備すると 思っているのかしら」
「決めたら引越しには戻ってくるんじゃないの」
「翼は、やけにおじいちゃんおばあちゃんの肩、もつわねえ。そんなに追い出したいの?」
「そうじゃないってば」
 車窓の外は真っ暗だった。昼間であれば、とうとうと流れるあの豊かな川を見ることが出来るのに。紅葉はもっと色を増しているだろうに。翼は、窓 に映った父の顔をみてどきっとした。なんだかひどく疲れているような気がした。暗く、そして悲しげだった。

 風と森の村まで、タクシーで十五分だ。運転手さんはのどかに声をかけてくる。
「いやあ、ご家族でいいですなあ。この時期、紅葉は最高ですよ。村の露天風呂は、真っ白なお湯でよく効きます。暖まっていかれたらええですな あ。」
 適当に相槌をうちながら、寡黙になってしまった両親を見る。初めて訪れる高布町の深い森に、どう対処していいかわからないのかもしれない。ここ にあの二人が暮らすだって?これから深い雪も降るだろうに。南国育ちの二人がどうしてまた?父の顔には、ときおり、あの暗い影がよぎる。どうしたというの だろう。

 祖父母は、ログハウスの入り口で、翼たちを迎え入れた。荷物を運んでくれる運転手さんに、明るくお礼を言っている。なんだか、一週間で、別人になってし まったかのようだ。
「ご苦労だったね。話は、明日、明るくなってからにしよう。お前たちも仕事が終わってから列車に揺られて、疲れただろう。まずはお風呂に入ってお いで。センターの大浴場と露天風呂まで、歩いて三分だよ」
 祖父は、優しそうに、でもきっぱりと告げた。それ以上、何も今夜は話さないぞ。そう宣言している目であった。祖母も微笑みながら、タオルを準備 してくれる。肌のつやも良く、とても健康そうだ。翼たち三人は、反論するタイミングも失って、お風呂に向かった。

 ここの温泉は、硫黄分が強いらしく、PH2・7とか書いてある。水道の蛇口は酸化してぼろぼろだ。きっと母はあまり喜んでいないだろう。彼女は、泉質と かじゃなくて、要するに、きれいなお風呂が好きなのだ。翼は温泉はわからないが、まあ、こういった白いお湯は、なんとなく温泉っぽい感じはする。翼は、露 天風呂の一番奥にいる父のそばへ寄っていく。泣いているような気がして、はっとした。
「父さん、もう上がるよ」
「うん」
 なんだかそれ以上、声がかけられなかった。一人で置いておくのは心配だったが、とりあえず大浴場へ戻った。ガラス越しに父が見える。ざぶっと温 泉に頭から何度か浸かっている。このお湯じゃ目が痛いだろうに。上がってきたときかなり目が赤かった。

前ページ 3.東京の朝    5.光の中で