第一章 秋の章「温泉地の秋」
2.遼子さん(その1)
高布町の駅についた。意外なくらい、小さくてシンプルな建物だ。でも、ベビーカーが二台、楽しそうに通っていく。お客はシニアばかりかと思っていたら、
そうでもないらしい。三世代でにぎやかにレンタカーのオフィスに向かう一団もいる。三歳くらいの女の子がかわいくて、お祖母ちゃんは目を細めていた。きっ
と、僕が小さかったころも、あんな目でみていてくれたんだろう。人に愛された記憶って、意識の中には残らないものなのだろうか。
「上村さんですか?」
遠くから呼ばれたような気がして、我に帰った。あ、きっと、これが遼子さんだ。駅前に停めた車の前に立って、手を振っている。電話で話した声の
印象より、もっと若い。白い綿のシャツに青いストレッチパンツ。ほとんど化粧はしてないようだが、爽やかな目に力がある。仕事できそうだな。
「お待たせしてすみません」
「いえいえ、高布へようこそ、お待ちしておりました」
遼子さんの車に乗って、翼たちは湯治宿である「風と森の村」へ向かう。周囲は温泉宿やみやげ物店が木立の中に点在するのどかな風景だ。翼は小さ
なコンビニを見つけて少しほっとする。
「コンビニも、モスバーガーもありますよ」
気持ちを見透かして、遼子さんが少し笑う。
「は、なんとか生きてゆけそうです」
翼も笑って返した。祖父母は、周囲の景色に見とれていた。
「九州の温泉もすごくよかったけど、ここは紅葉がきれいで、素敵なところだねえ」
「ほんとに。なんてきれいな色なんでしょう」
遼子さんが微笑んで返す。
「ええ、このあたりは、寒暖の差が激しいので、きれいに紅葉するんですよ。朝夕は冷え込みますので、気をつけてくださいね」
二人はうなずきながら、楽しそうだった。なんだか、こんなにはしゃいでいる二人を、見たことが無いような気がする。何故だろう。いつも、いつ
も、静かにしているのしか、見たことがない…。
宿は明るい紅葉の中に点在するログハウスだった。プライバシーに配慮して設置された大きなテラスが気持ち良さそうだ。夕方の日差しに、木製の椅子が作る
影が優しい。
「ここからリスや鹿が見えるんですよ」
遼子さんが窓を開けながら話す。床暖房が入っているようで、部屋の中は快適な温度だ。荷物を解きながら、老夫婦の会話が弾んでいる。
「あ、これ、おまえの化粧品だろ、洗面所に置くかい?」
「いえいえ、寝室のドレッサーが大きいのでこちらにお願いしますね」
木製の家具がどれもなんとなく低くて、高齢者に使いやすそうだ。翼は今夜一泊だけなので、解くほどの荷物もない。二人の会話が、まるで新婚の夫
婦のようで、手持ち無沙汰に聞いている自分が、なんとなく恥ずかしかった。遼子さんが寝室か翼翼を呼ぶ。手にモバイルを持っている。
「翼さん、先日はおじいさま、おばあさまのベッドのデータをありがとうございました。一応、同じ状態に設定しておきましたので、ご確認いただけま
すか?」
といわれても、翼には見た目はわからない。
「あの…」
「あ、申し訳ありません。翼さんの携帯をこのベッドに向けていただけませんか?RFIDタグはこちらです」
携帯のデータポートをRFIDへ向ける。先日、そういえば電話で同じことを指示されたのだった。データは一瞬で読み取られ、画面にはメッセージ
が表示された。音声読上げをセットしてあるので音になる。「既存の類似データと照合するよう指示されています。照合しますか?」。携帯に向かって「はい」
と答える。先日、翼が家から送ったデータと突き合わせている。「ほぼ同一の状況です」とメッセージが帰ってきた。
遼子さんが静かに話す。
「後は、このデータをどうなさるかは、お二人に決めていただきます。またご自宅のデータと照合することがあるかもしれませんが、そのときはよろし
くお願いいたします」
なんとなくよくわからないが、とりあえず今回の仕事は設定だけのようだ。ま、同じだというのだからいいのだろう。だけど、こういった身の回りの
製品のデータが手軽にやりとりできるようになったのは便利なことだ。
祖父母は衣類をロッカーにしまい、もってきたお茶や薬などを食堂の棚に納めている。扉が軽くて、とても使いやすそうだ。ログハウスには基本的な
生活用品は揃っているし一週間の滞在なので荷物は多くない。IDカードで近くの医療機関にもカルテを開示できるので急な病気やけがにも対応できるし、遼子
さんがそういった場合にはつないでくれるそうだ。シニアにとって遠くへ出かける際の負担はかなり減っているのだろう。