第一章 秋の章「温泉地の秋」
1.温泉へ向かいながら(その2)
そのまま、翼はしばらく眠った。夢の中で両親が出てきた。母が話していた。
「お母さんたち、本当にうちに来てから、何も要求しなくなったわね。九州にいらっしゃる頃は、あんなにあれして、これしてって要望が多かったの
に、家をたたんで東京にいらしてからは、本当に静かになってしまって。ま、こちらは楽でいいけど、なんだか、不安よね」
父も答えている。
「部屋も狭いし、友達も少ない。そりゃ、住み慣れた九州とは勝手も違うだろう。もうしばらくすれば、また元気にわがままを言い始めるさ」
そう、祖父母が、祖母の大病の後、九州の家を引き払って東京に出てきたのは二年前のことだ。友だちも次第に鬼籍に入り、住み慣れた家もだんだん
住むのが難しくなってきていた。祖父は二階の寝室から夜中にトイレに起きて階段を落ち、骨折したこともある。古い和風建築の家と庭に深い愛着はあったが、
もう自分たちだけでは管理できないとあきらめたのだ。知り合いの若夫婦に家土地を譲り、東京の翼たちの高層マンションの一部屋に移ってきて二年が経つ。最
低限の手荷物と衣類。思い出のあるものは大半整理してしまったと言った。父や叔母がまだ小さかった頃、手作りした子供服のハギレ、学校で書いた絵、火を入
れることも無くなって最後はメダカを飼っていた大きな火鉢、いつか使うかもと思ってとっておいたきれいな包装紙やお菓子の箱…たくさんのものが、ごみとし
て処分された。
それからなのかもしれない。祖父母が寡黙になったのは。東京に出てきてからは、二人だけに通じるテレパシーで生きているような気がする。失って
しまった大きな時間と空間を、二人の思い出の中では活き活きとよみがえらせることが出来るかのように、二人はこころで会話している。空が少ししか見えない
マンションの一室でひっそりと暮らしていながら、こころはいまでも、どこかをさまよっているような目で生きている。
そんな二人が、湯治へ行きたいと言い出したのだ。秋も深まってきた十月の週末。一週間は過ごしたいという。祖父母にとって本州の温泉はまったく未知の世
界だ。もちろん翼にも初めてなんだが、かばんもちで誰かついていったほうがいいということで、今日、こうして一緒に電車に乗り、山奥へと向かっている。
あ、ケータイにメールだ。高布町のセラピストの遼子さんだな。出かける前に何度か電話とメールでやりとりしていた。
「上村様、まもなくお付きですね。高布駅でお待ちしています」
「ありがとう。あと二十分ですね」
遼子さんは、高布町の温泉ライフセラピストだ。シニアがたくさん湯治にいくようになった二〇一〇年代になって、それまでの物理療法士や作業療法士
の枠を越え、湯治専門のセラピストが職種として確立した。体質や健康状態などを、温泉成分と照合させ、最適な健康環境を作り出すための、専門のライフスタ
イルや湯治カリキュラムを組んでくれる人で、湯治にいくときはほとんど、彼女みたいな専門家が対応してくれるんだそうだ。
遼子さんが最初に聞いたのは、ベッドの固さだった。
「ベッドと枕の強度を教えてください」
翼は一瞬、面食らった。
「え。どうすればいいんですか?」
「ベッドの端に出ているRFIDタグに、あなたの携帯電話を向けて『情報取得』のボタンを押してください。それでデータがとれると思います」
言われたとおりにやってみた。なるほど、コンビニ商品の価格や賞味期限のデータと同じように、ケータイの画面にベッドや枕の強度データが表示さ
れる。
「これは一般公開データなので、問題ないはずです。こちらへ送っていただけますか?」
送信ボタンで遼子さんへ送る。
「もし、おじいさま、おばあさまの許可がとれれば、ベッドにお休みになっていらっしゃるときの身体データも、取得していただけませんか?こちらの
寝具もニーズに合わせて準備しておきますので」
これは公開データではないので、祖父母の同意が必要だ。翼はそれを伝えることをすっかり忘れていたことを思い出し、少しあせった。
「ま、着いたら高布町の方法で、個々人に合わせるから心配いらないって言ってたよな」
翼は電話で話した遼子さんの、静かだが説得力のある声を思い出していた。